その日は昨日までの雨が嘘のように晴れ渡っていた。
燦々と照る太陽に袖から伸びる腕を焦がし、真白いシーツを両腕に抱えて廊下を早足で歩く。雨の所為で残る厭な蒸し暑さにいつもよりもこめかみに玉のような汗を浮かべながら、彼女は中庭で洗濯をしている侍女にそれらを任せてもう一度来た道を戻っていく。黒秤塔にある資料を文官のもとへ運び、それから彼是四日ほど私室にこもりっぱなしのヤムライハを連れ出さなければならない。暑さに耐えきれずに広い袖口をめくり腕をまくれば、じりじりと皮膚が焼けるような感覚を覚えた。
黒秤塔へと続く両開きの扉を潜り抜けると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。長机に巻子本を広げている魔導師や学生の横を通り抜け、奥の通路を進んでいく。太陽の光を嫌うかのように暗がりに潜む廊下の先で、ゆらりと仄明るいランプが揺れた。
未だにこの国の文字を読むことはできないが、扉に掲げられたプレートが立ち入りを拒んでいるものというのはなんとなくわかった。そのプレートの凹凸を指でなぞってから、耳を澄ませてみる。部屋の奥から聞こえるのはカツカツと文字を書く音ばかりで、時折紙をびりびりと破る音が響いていた。
コンコン、と中指で扉を叩いても、ヤムライハと名を呼んでも中から人が出てくる様子はない。
「ヤムライハ、ナマエだけど…入りますよ?」
このまま外で待っていてもおそらく彼女は気づかないだろう。もう一度ノックをしてから、ゆっくりと隙間から覗き込むようにドアを開けていけば、閉め切った暗い室内で机の上にあるランプだけが揺らめいていた。ギイイと蝶番の軋む音をわざと大きく出してみたけれど、目に映るのは散らばった巻子本の束ばかりでお目当ての彼女は見つからない。こつん、と足音を鳴らして部屋の中へと踏み入れれば、爪先に何かが引っかかった。紙ではない、そこそこに硬さも厚みもある何かに躓き、勢いよく前方に滑り込む。
「っいっ…!?」
床の硬い感触を頬に感じて、擦れた摩擦の痛みに思わず唇を歪めた。何に転んだのかを確認しようと床に手を吐いた瞬間、ぱあっと突いた手から光が溢れていく。目の眩む眩しさに細めながらその光を追っていけば、彼女を中心に魔法陣のようなものが浮かび上がった。
「――っ」
きいんと鼓膜を突き破るような甲高い音に耳を塞ぐ。明らかに何かの魔法が発動してしまっている。ヤム、とそう名を呼ぼうとして、口を噤んだ。目の前で真っ黒い何かが羽ばたいていく。一つ、二つと羽ばたいていく小さな鳥に似たそれらは、くるりと反転するとしゅんと消えていった。
『――ナ』
遠い遠いどこからか、声が響いた。その声が徐々に近づいてくるたびに、ずきんとまるで金槌で殴られるような鈍く重い痛みが頭に圧し掛かる。
『ナマエ』
柔らかな声が響いた。痛みに耐えきれずに頭を抱えて蹲るたび、記憶の奥深い底から何かがぼこぼこと湧き上がってくる。
視界が歪む。声が、でない。
『い、ろ…』
名を呼ぶ柔らかな声とは違う、低い声。知っている。この声も、知っている。
喉の奥から言葉にならない、ヒキガエルのような嗄れた声が漏れた。
「しょ、たいちょ……」
一際光が溢れて溢れて、ついに視界が真っ白に染まる。
何も見えなくなった世界の中で、誰かの泣き声が聞こえたような気がした。
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