シンドリアを守る防御結界にひびが入ったと聞かされたのは、謝肉宴の翌日の事だった。悪意あるものの侵入を防ぎ、またもしもの際にはその侵入者を追跡する役割をもつ結界は彼女、ヤムライハにとっての誇りそのものであった。完全に破られてしまったわけではないので修復には然程時間はかからなかったが、問題なのはそこではない。ひびが入るということは、この国に仇なす者が侵入しようとしたのか既に入られたのか、どちらにせよそういうことである。すぐさま八人将の招集がかかり、王から下されたのは警戒せよとの命のみであった。ヤムライハの魔法を駆使してこの国の隅々までもを調べてはいるが、今のところそういった類のものは見つかっていないのだから、それしか方法がないのだ。もっと精度の高い防御魔法を考えようと、黒秤塔の奥にある自室にこもったのはそれからすぐのことだった。
何度も魔法論理を洗い直し新たな魔法陣の錬成を試みるも殆どが失敗に終わり、部屋の中で行っていた小規模の結界が決壊するたびに小さな爆発を起こすものだから部屋は今までで最も雑然と散らかり放題だった。それでも漸く考えがまとまり床に魔法陣を描いて満足したのは自室にこもってから四日後の事。不満と苛立たしさにびりびりに敗れた紙を踏み越え、彼女は一度仮眠をとることにした。どうせ部屋を訪れる者はいないと、展開したままの魔法陣は放置して。仮令誰かが部屋に入ってきたとしても、彼女がいなければどのみち発動されることはない。隣の部屋への扉を開けて埃っぽいベッドに飛び込むと、数秒としないうちに規則的な寝息をたてていた。
それはおそらく、十分と経っていなかったように思える。隣の部屋から何かの音が聞こえ、うっすらと瞼を開けた。眠さの所為で回らない頭をもたげながら、むくりと上体を起き上がらせて辺りを見渡す。気のせいか、ともう一度枕に頭を放ったところで、それは起きた。
扉の隙間から眩しいほどの光が漏れた。寝起きの頭を一気に目覚めさせるほどに眩しい光に、さあっと血の気が引いていく。まさか、魔法が勝手に発動して――? 急いでベッドから飛び降りて扉を開ければ、やはりあの魔法陣が発動していた。何故、と疑問が頭の中で渦を巻き、それからゆっくりと収まっていく光の中心で見た人影に眩暈がした。
「ッナマエ!?」
すうと消えていく光に合わせて、彼女は床にふらりと倒れこむ。魔導書をかき分け踏み越えてナマエのもとへ駆けよって、言葉を失った。
「う、そ」
ただの防御結界の魔法陣なだけで。悪意あるものを弾くそれを組み込ませただけで。こんな、結果になるはずが、ない。
言葉にならない声ばかりを漏らすヤムライハの前には、記憶よりも一回りほど幼くなったナマエの姿があった。
弟子の鍛錬の報告のため、その場にはシンドバッド、ジャーファル、マスルールにシャルルカンが居合わせていた。誰もが重苦しい雰囲気を醸し出すばかりで、その視線はみな一様にソファに横たわる彼女を見つめている。十三、四歳ほどの少女というべき姿をした彼女は、険しい表情を浮かべて眠っていた。無言が続く空気の中シャルルカンがようやく声を上げた。
「…何してんだよ」
「……勝手に魔法が発動するわけないし、したとしてもただの防御結界の魔法だったから…! こんなことに、なるなんて」
「だから魔法ってのは信用なんねえんだよ、お前これどうすんだ」
「…、ごめん、なさい」
呆れにも似た声で棘を吐く彼に、ヤムライハは目元を歪めて小さく俯いた。それにう、と言葉を詰まらせたシャルルカンは罰が悪そうに視線を彷徨わせている。そんな部下の姿に、シンドバッドは苦笑いを浮かべながら机の上で手を組んだ。
「ともかく、ナマエが目を覚まさなければな。ただ外見が幼くなっただけなのだろう?」
「その、はずです。でもそんな命令式組み込んだ覚えなんて…」
「どうせ失敗したんじゃねえの?」
「失敗したって、命令式に組み込まれていない過程を踏むはずないじゃない! こんなことになるなら仮眠なんてとらないで完成させればよかったわ」
予想だにしていない結果に目に見えて不安に苛立つ彼女に、また全員が押し黙ってしまった。時折ナマエの唸るような声が重い部屋で響くばかりだった。
「…過ぎたことはどうにもなりません。今は一刻も早く元に戻す方法を見つけましょう」
「……はい」
ジャーファルの言葉に、誰ともなくため息が漏れた。
「……、う」
ぴくりと瞼が痙攣する。そうして徐々に開かれていく目蓋に、ヤムライハはほっと息を吐いた。
「ナマエ! よかった、どこか痛むところはな――っ!」
彼女の顔を覗き込むように腰を屈めれば、言葉を言いきらないうちにヤムライハが尻餅をついた。それはナマエが彼女を突き飛ばしたからで、当人はソファの背もたれに手を突いて飛び越えるとすぐさま身構えた。ソファを挟んで、息を殺してじっと彼らを睨みつけている。徐に右腰に伸ばされた左腕が空を掴み、彼女は歯噛みしたのちその青の瞳を見開かせて自身の左腕を持ち上げた。ばっと肩まで袖をたくし上げ、一瞬動きを止める。揺らぎ、苛立ち、怯えるナマエの瞳が彼らを映したとき、おそらくこの場にいた全員が、次に彼女が吐くであろう言葉に息を呑んだ。
「…誰、ですか」
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