誰ですか。
そう吐き捨てられた言葉に、彼は頭を抱えたくなった。見たこともないような敵意を剥き出しにした彼女の双眸に、腹立たしさと僅かな痛みがよぎる。あんなにも余裕のない表情は初めて見た。といっても彼女がこの世界に来てまだひと月も経っていないのだけれども。
誰もが言葉を失う中で、床にへたり込んだヤムライハが懸命に言葉を紡いでいた。


「誰って、ナマエ、もしかして記憶も後退して…?」


それはヤムライハが彼女自身にかけた言葉であり、相変わらず身構えるナマエに対して言葉を探す余裕もないようだった。彼女が名前を呼ぶたびに険しくなる眉間の皺に、ふと既視感に似たなにかを覚えた。


「…何故、私の名前を? あなた方は誰なんですか、ここは…!?」


かたかたと震えだした彼女の顔は真っ青で、今にも泣きそうな瞳で悲鳴じみた声を上げた。


「なんで、わたし……っ」


生きてるの。
おそらく目の前の彼女は、彼らの知っているナマエではない。外見と同じ大凡十年前のナマエそのものなのだ。
ただひたすら唇をかみしめて俯いた少女は、まるで糸の切れた人形のように突然ぱたりと倒れてしまった。はっと我に返ったシャルルカンが彼女に駆け寄り何度も声をかけていたが、どうやらまた深く眠ってしまったようだ。
ジャーファルがシンドバッドの隣でただ呆然とことを眺めていれば、彼はピアスを揺らしながら深く椅子に腰かけた。ふうと息を吐いた彼に、全員の視線が集まる。いつにもまして難しい顔をしたシンドバッドは、重々しげに口を開いた。


「…一先ず、様子見するしかなさそうだ」
「わ、たしどうしよう――!」


今度はヤムライハが震えだす始末で、ジャーファルは人知れず奥歯を噛んだ。


「とにかく、あなたは休みなさい。ヤムライハが倒れてしまえばどうしようもない」
「でも」
「ヤムライハ、焦ったところでよくなるわけじゃない。頭を冷やすことも大切だ」


努めて柔らかく笑んだシンドバッドに漸く頷いた彼女は、よろよろとおぼつかない足取りで立ち上がる。ナマエを知っている官吏も多いことから、取り敢えず紫獅塔の空き部屋で休ませることになった。ヤムライハとナマエを抱えたシャルルカンとを見送り、水を打ったように静まり返る室内に溜息が響く。


「…ロゼさんには、私から伝えましょう」
「ああ、頼んだ。マスルール、すまないが彼女が目を覚ますまで任せる」
「はい」


あの状態の彼女では見境なく暴れ始めそうだ。いつぞやに見たあの狭苦しい部屋での光景のように、再びマスルールが見張りとしてつくことになる。ヤムライハやシャルルカンは彼女とは一番親しいようだし、今回もやはり彼が適任であった。
シン、と呼びかけた声が自分の意思に反して酷く重苦し気で、ジャーファルは広い袖口で口元を隠した。


「彼女に、どう説明したものでしょうね」
「それは、この世界の話か?」


次から次へと飽きないな、と冗談とも本気ともとれるような声音で呟かれた言葉にじとりと睨みつければ、彼は幼いそれのように肩を竦めてみせた。


「…にしても、初めて彼女に殺気を向けられたな」


シンドバッドの言葉に彼女の鋭い双眸が脳裏を過る。――酷く暗い瞳だった。何故生きているのかと、その声は絶望に近い色をしていた。そういえば、どんな時でもへらへらと笑っていた彼女があんなにも追い詰められて声を荒げて果てには泣き出しそうな顔をしていることに、違和感を覚えた。そういえば世界が違うのだと言ったときでさえ、それほど気は動転していたようには見えない。見える見えないだけで、内心どう思っていたかどうかは別として。なんというか、やはり幼くなってしまっているのだと理解せざるを得なかった。
ひとりなんとなくそんなことを考えていれば、隣でシンドバッドが片眉を吊り上げて見上げてきた。相変わらず好奇心に満ちる瞳にまた溜息を零す。それが小さな少年の純粋な好奇心であったならば、話をそれで済むというのに。こちらを見ていたマスルールと目が合って、右目の端が引き攣るのがわかった。


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