彼は一人、ただ部屋の前で立っていた。太陽は疾うに沈み、月が昇ってから暫く経つ。足元で伸びる影も時間が経つにつれ変わっていた。
いつ起きるともしれない、もしかしたら魔法の効果が切れるまで起きないかもしれない相手を見張れというのも、なかなかに退屈な仕事である。まったく眠くないかと言われれば既に何度か夢を見て、今もこうして唇の下のピアスを押し潰さんとした痛みを感じなければすぐにでも眠ってしまえるほどに睡魔はにじり寄っていた。眠いと何度目かもわからない呟きを頭の中でごちる。ぼやぼやとしているのは通常と変わりはないが、やはり動作一つとっても動きは緩慢であった。
右足にかけていた体重を入れ替えようと身じろぎした時、部屋の奥で音を拾った。その音というのは衣擦れといったものではなく、目が覚めた人間のする呼吸の音だった。
ヤムライハが血相を抱えて王の部屋に飛び込んできたのは、丁度彼が弟子のモルジアナとの日課である稽古を終え、途中に出くわしたシャルルカンと定期的な報告をするために部屋に集まっていた昼間のことだった。四日間引きこもりをしていた彼女が大慌てで――しかもいつにもまして顔面蒼白で――扉を勢いよく開け放った時は敵襲かとも思ったほどで、マスルールも例外なくそれはもう驚いた。ただすぐに嗅いだことのある匂い――どんなものかと言われると答え難いが、とにかく彼女特有の匂い――がしたので、彼女が抱えていた黒っぽい大きなものはナマエなのだと気づいた。何を思ってローブで隠すようにしているのかは、ヤムライハがそれを剥いだ瞬間理解した。
幼い。謝肉宴で探しに行ったのが最後のはっきりとした記憶だったが、明らかに記憶の彼女より幼かった。モルジアナと変わらないか、それよりも年下か。魔法の巻き添えを食らったのかと、その場にいたシンドバッドやジャーファルもそう思ったようだ。なにをそんなに慌ててと首を傾げたものだけれど、当事者のヤムライハとしては魔法の命令式とその結果があまりに噛みあわなさすぎるものであるが故のパニックに陥っていたようだった。小難しい話は得意ではないので、というか聞こうとも思わないが、要約すると「あり得ない」らしい。
そして、目が覚めた彼女は記憶がない、と。いや、ないというと大きな誤解を生むが、正しくは記憶も外見も大凡十年分丸々後退してしまった、ということのようだ。
シンドバッドから聞いた話では、彼女はまったく別の世界から来たという。マスルールにはルフと言うものは見えないので何とも言い難いところだが、あのヤムライハがそういうのだからきっとこの世界の人間ではないのだろう。ファナリスであるという種族的特徴を持ち出して区別化するならば、匂いが違う。この世界では嗅いだことのない匂いだった。
別の世界から来たと言って加えて今回のこの騒動。不運というのか策略と疑うのかなんとするか。どちらにせよ、問題を抱えてばかりであるということに少なからず同情はした。
ぺたりと素足が硬い床を歩く音に、手持無沙汰に広げていた思考回路をせき止める。その足音はひどく覚束ない足取りで真っ直ぐに扉に向かってきていた。
がちゃり、とノブが半回転する。内開きの扉が開かれる。暗い室内から身をすべり込ませるように現れたのは、まるで死人のように血色のない肌に瞳を乗せたナマエだった。ぺたり、と白い足が廊下を踏む。彼女はどうでもよさそうに扉の外にいたマスルールを見上げ、ぱたんと扉を閉めた。
「……どこ行くんすか」
青い髪が月光にきらめいている。俯いた顔は身長差も相まって見ることはかなわないが、見なくともわかった。おそらく何の感情も浮かべてなどいない。
マスルールの声に答えるわけでもなく、ただ一瞬足を止めてからそれも気の所為だったかのようにふらふらと再び歩き始めた。彼女はこの場所がどこで、彼が何者なのかもすべてわかっていないはずなのに。一体どこへいこうというのだ。――いや、これもやはり、何も考えてなどいないのだろう。
取り敢えず見張ることが彼の仕事であるので、小さな歩幅でゆっくりと歩いていく少女の後を追うことにした。
壁に手を突き、添うように歩くこと何十分と経っただろうか。彼女の小さな小さな歩幅では未だ建物の端に追いやられている階段にたどり着くことさえできていなかった。彼はどうしたものかと項に手をやりながら、一定の距離を保ちながら後ろを歩いていた。そうしてまた暫くたった後、少女は初めて立ち止まった。
こつんこつんと、ようやく目と鼻の先となった階段を上ってくる足音がする。それがこの階にたどり着いたとき、色濃い闇の中から見慣れた官服が翻るのを見た。
「…マスルール、これは、」
珍しくその両目を見開かせている。徹夜で疲れているのだろう、彼の目の下には確かに隈があって、その目の端が不自然に引き攣った。二人の間にいる彼女は、顔を上げることも声を上げることも歩き出すこともしない。ただ、ずっと立ち止まっている。
マスルールは少しだけ眠い目を瞬かせて、今この現状を伝えるための言葉を探した。
「……どこか、行きたいところがあるみたいです」
「行きたい、ところ?」
行きたいかどうかは知らないが、歩くという意思は持ち合わせているのだから変わりないだろう。彼、ジャーファルは暫し思案に耽ってから、少しだけ腰を屈めた。
「…どこまで、歩くつもりですか」
彼の質問に首を傾げたのは残念ながら聞き手となるマスルールとナマエのほかにおらず、ましたや今の彼女が何らかの反応を示すとは思えない。必然的に疑問の残る彼に、ジャーファルは気づいてはいるようだが言葉を重ねることはしなかった。どこまで、とはどういう意味だろうか。どこへ、ではなく、どうしてでもなく。
ナマエはぴくりと僅かに壁に添える小さな手を動かしたきり、やはり何も答えなかった。ジャーファルはひとつ間をおいてから、冷ややかにも思える声で告げる。
「それなら、ついてきなさい」
踵を返して歩き始めた背中を見つめ、少女を見やる。長い長い沈黙の末、ほんの小さな一歩を踏み出した。再び、この奇妙な尾行は続くらしい。階段を下りはじめたジャーファルの行き先は、知るはずもなかった。
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