結界なくして、こんなにも穏やかな夜はありませんでした。
自嘲にも似た笑い顔と、悲痛な叫びに似た声が、耳に残っている。その一言で彼女と言う人間がどこから来たのかを告げていたのだから、良くも悪くも忘れることなどできなかった。

まだ寝ているのだろう思っていた。扉の前に立つマスルールはきっと眠い目を擦りながら見張り番を続けているだろうから、少し眠気覚ましに会話をして、交代をするから仮眠をとってくるように伝える算段でいた。だから、階段を上り切ってすぐに少女が立っていたことも、その後ろでマスルールが珍しく困った様な顔をしていたことも、あまりに驚いて一瞬本当に惚けてしまった。
聞けば、どこか行きたいところがあるらしいという。恐らくそれは行きたい場所といった願望ではなく、ただ歩くという行為に対する願望なのだろうと考えはついたものの、このまま朝までうろうろとされるのも困る。仕方なしにどこまで歩けば気が済むかと問えば、案の定答えなど返ってこなかった。
――それよりも、なんて顔をしているんだろう。まるで死人のそれじゃないか。確かに元からあまり血色のいい肌とは言い難かったが、それよりも度を越して真っ青だった。月明かりの青白さを差し引いても、よく立って歩けていると思うほどに。死んだ魚にも似た生気が全く以て感じられないどろりとした瞳でただ呆然とジャーファルを映す双眸が、気に食わなかった。何が彼女をそうさせているのか、大凡十年前に記憶が戻っているというから、その時何があったのか。会話もなにもあったものではない。このままでは自ら死に逝きそうだ。
なにに苛立ったのか、彼自身よくは分からなかった。ただ、確かに腹立たしさを感じたのだ。
ついてこいと、告げたところで彼女がまた歩き始める保証はない。それでもぱちりと瞬きを一つしたからには、声は届いているらしかった。彼女越しに見えたマスルールの不思議そうな顔に何か言おうかとも思ったけれど、さきに踵を返してしまったせいで何も口を突いて出てこなかった。

歩き慣れた廊下をおそろしくゆっくりとした歩調で歩いた。ジャーファルの一歩が果たして彼女の何歩分になるのか、数えてみる気も起きないほどに身長差以前の問題がある。今もなお後ろをついて歩くマスルールはその足取りに慣れたのか、いつも通りの無表情だった。


「…あなたは、どこから来たのですか?」


ナマエと、名を呼んだことは一度もない。それは彼女が幼くなる前から同じで、別に他意があったわけではない。ただ、もしくだらない理由をつけるとするならば、納得していないから、その一点に尽きるのだろう。いや、もしかしたら納得と言うのとはまた少し違うのかもしれない。自分の感情を言葉で言い表すことほど、難しいものはない。そしてそれをしっくりと見合う言葉で相手に伝えることができるのであれば、よじれることもなく過ごしていくことができるのだろう。
ジャーファルはいつもなら数分で歩く道のりを何時間もかけて歩いたような疲労感を感じながら――実際まさしくそうなのだが――漸く目的地に辿り着いて息を吐いた。流石にもう草木も眠る丑三つ時である。中庭を歩く者の姿など見渡したところでいるはずがない。
くるりと振り返り彼女を見れば、地面ばかりを見つめていた。


「もし、ここがどこだか知りたいのであれば、自分の目で確かめなさい」


生温い風が吹き抜ける。足元の草をさらさらとなびかせて、音もなく消えた。ひどく長い時間をかけて、目の前の少女はゆっくりと顔を上げる。まず初めに彼と目が合い、そして空を見上げた。


「…、…」


声を、聴いたような気もする。もしかしたらそれはただの呼吸の合間の音だったのかもしれない。それでも確かに、彼女の瞳は揺らいでいた。どさりと、柔らかな草地の上に膝をつく。瞳は相変わらず空を映すばかりで、唇は何も紡がない。マスルールが奥でつられて空を見上げていたけれど、彼女以外の人には皆等しくただの夜空としか見えないのだろう。


「…こ、こは」
「シンドリア王国です」


掠れていた。年老いた老婆のようにしわがれた声は、空の向こうに救いを求めている。何か既に追い詰められている十余の少女に、どう告げていいのか分からなかった。それでも言わないという選択肢はない。いずれ知ることになるだろうから。


「ここは、あなたにとって違う世界なのだそうですよ」


どんな言い回しをすれば、過去の自分であることを思い出すのか。あるいは未来の自分を思い出すのか。それは分かるはずもなかったけれど、彼の知っているナマエならば、どれほど遠まわしな言葉で伝えたとしても言わんとしていることは伝わるだろう。仮令それが如何に幼かろうと。現に目の前の少女は初めてジャーファルをその瞳に映し、困惑していた。相変わらず死人のような顔をしてはいるが、疑問を持つということは少なからず現状に興味を持っているということだ。今のところ自刃に走ることはなさそうだ。


「あなたの記憶に、聞いてみるといい」


ぴくりと瞼が動いた。そうして再び視線は足元の緑ばかりを映していた。これでもかというほどに膝の上で握りしめられた拳がわなわなと震え、傍から見ても爪が食い込んでいるだろうことは容易に想像できた。
驚きの声も悲しみの叫びもなにも言わない。ただひたすらに無言を貫いては拳を固めている。潮っぽい香りを引き連れた風が頬を撫でたとき、彼女はゆっくりと手のひらを広げた。甲を翻し、食い入るように爪で抉れて血のにじむ手を見つめている。所詮少女の力では、ましてや己の意思一つではそんな傷をつくることしかできないのだ。
不意に、笑い声が聞こえた。それはとてもとても小さな声ではあったけれど、周りが静かなことと二人とも常人より耳がいいことで確かにはっきりと笑った声を聞いたのだ。
なにがおかしいのかと問えばよかったのだろうか。彼女はなにに笑っているのだろうか。
その声はやがて消え、最後に残ったのは嗚咽に近いものだった。泣くことは、しなかった。
ただその背を撫でて慰めるようなことは今の彼女は求めていないだろう。傍に寄り添い涙をぬぐい、優しい言葉をかけてやる。そんなことは、きっと一番に似つかわしくない。そもそも慰めの言葉をかけてやれるほど、この国にいる"誰が"一体彼女の"何を"知っているというのだろうか。
それでもやはり、息苦しかった。早く夜が明ければいいと、一人空を見上げて祈っていた。


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