インクの滲む羊皮紙にペン先を走らせる。ランプの不安定な揺らぎさえ気にも留めず、ただもくもくと頭の中で思い浮かぶ魔法理論を構成していた。
――現在と過去の記憶を混同させることは精神撹乱系の八型魔法の応用で、比較的容易に魔法を施すことはできる。肉体の若返りも細胞単位での活動を同じく八型魔法で活性化させ、あらゆる方面での命令式を構築すればできないことはない。術者がその場にいなくとも、範囲内へ足を踏み入れた者限定に魔法を行使する仕掛けを付け加えれば、条件がそろえば勝手に発動されるだろう。
がりがりと紙を抉るように書き殴り、肉体及び記憶の退行に関するルフの命令式を書き上げ魔法陣を描いて手を止めた。確かに、"この魔法"ならば可能である。術を掛けられた者はみなナマエのような姿で記憶も入り雑じる。あの時発動待機状態であった魔法陣がこれであったならば、すべてにおいて説明はつくのだ。
しかし実際あの場にあったのは防御結界を作り上げる魔法であり、基本的に八型魔法は使用されない。どう間違って失敗したとしても、記憶の撹乱も起こることがなければ肉体が変化することも起こるはずがない。
彼女は昨日書き上げた防御結界に関する資料を横に並べ、机に額を押し付けた。
(…あり得ない…なんで、こんな……!)
魔法の研究のために誰かを誤って巻き込んでしまうことが今までなかったわけではない。局所的な細胞の活性化――詰まる所顎鬚を生やすための魔法を完成させるために、シンドバッドやジャーファルたち数人が犠牲になったことはまだ記憶に新しい。ただそれは活性化させる部位の特定をすることが困難であったために引き起こされたものであって、その原因については納得がいくものであった。それが、今回にはまるでない。
(考えられるのは…ナマエ自身に何らかの魔法がかけられていたってところかしら…)
そもそもナマエはルフを持っていないのだ。魔法が仕掛けられていたとしても気づきようはない。いや、それ以前に時限式の魔法を、ルフを持たない人間にかけることが可能なのだろうか。
考え得る可能性を漏れなく書き出し、そこから頭の中の引き出しを開けて探してはまた開けてを繰り返し、考えを繋げていく。何も思い浮かばなくなった頃、日除けのカーテンの隙間から淡い光が漏れるのを感じた。
ああ、ついぞなにも見つけることができないまま朝を迎えてしまった。そういえばジャーファルには休めと言われていたが、結局徹夜五日目を迎えることとなってしまったようだ。
力の入らない指先からペンを離す。くたりと、自分以外の誰にも読み解くことなどできないような乱雑な字の上に横たわる。ペンの飾り羽は、黒いインクで汚れきっていた。
ふらふらと覚束ない足取りで黒秤塔から紫獅塔への道を歩いていた。まだ漸く空も白み始めた頃だというのに、忙しない様子で侍女たちが早足で歩き回っている。そんな彼女たちを横目に、長い階段を見上げてゆっくりと上り始めた。行く場所など、最初から一つしかない。眠気の所為かぐるぐるとする頭を抱えて目的の部屋へと向かえば、そこには既にジャーファルとマスルールの姿があった。恐らくマスルールは昨日からずっと見張り番を続けているのだろうということは想像できたが、何故彼がいるのかその理由は分からなかった。
「…ナマエ、は」
挨拶も忘れて、一番に彼女の名前を口にする。両袖に手を突っ込んでいたジャーファルは、ちらりと扉を一瞥したのち「部屋にいますよ」と苦笑した。休めと言ったのに、と続けて諌めるような口調でそう告げた彼の表情も、やはり疲れ切っていた。
三人の間に落ちた沈黙は、重苦しいように思えた。紛れもないこの事態はヤムライハ自身による過失なのだと、その弁論の余地もないことで尚更肩に鉛が積み重なっている。誰なのだと問いかけ睨みつけた彼女の声も瞳も、どうしようもなく痛いと感じるのはそれだけ歩み寄りたいと願っていたからなのだ。絶望や失望と言い表してしまうには、あまりにもナマエは被害者すぎた。そして彼女は疑いようもなく加害者なのだ。
「ヤムライハ、そんなに落ち込まないで」
いつ間にか下がっていた視線をあげれば、目の前でジャーファルが困ったように笑っていた。貴方の所為じゃない、とは、流石に彼も言わなかった。言われなくてほっとした。それに答える声も出せずに、ただ頷くほかなかった。
「…この後は朝議もありますし、少し眠ってはどうです? それではあなたが倒れてしまう」
「……いいえ、少しでも、今のナマエと話をしてみたいんです。そうしたら、もしかしたら何か分かるかもしれない」
ジャーファルがマスルールと顔を見合わせたのが、視界の端に映る。握りしめた官服の袖はしわくちゃで、噛み締めた歯の隙間から乾いた息が漏れるばかりであった。
「シンさん」
マスルールの声に弾かれるように顔を上げて振り返れば、そこには僅かに苦笑を浮かべるシンドバッドがいた。
「――真っ青じゃないか」
彼はヤムライハの顔を覗き込むように小さく腰を屈め、それから扉の向こうと二人を見やり息を吐く。様子はどうだと頭上で交わされる言葉に唇を噛んで、ドアの前で立ち止まったシンドバッドを見上げる。大丈夫さと笑った彼は柔らかにヤムライハの肩を叩くと、手の甲でかたい扉を二度たたいた。
耳を澄ましても返事はなく、聞こえるのはこの場にいる彼らの呼吸の音だけだった。彼はゆっくりとした動作でノブをひねり、無音の部屋に足を踏み入れた。
紫獅塔の一室ということもあってそれなりに広い部屋に設えられたベッドの上に、彼女はこちらに背を向けるように膝を抱え座っていた。ぼうっと窓の向こうを見ているのだろう、彼女たちに気づいているのかいないのか、ただ一度ぴくりと肩が跳ねたきり、反応はなかった。ヤムライハが最後にぱたんと静かに扉を閉めると、肺が押し潰されるような息苦しさを覚えた。
「…気分はどうだ、ナマエ?」
落ち着いたか、と至極柔らかに問うたシンドバッドの声に再び肩が跳ねる。相変わらず背を向けたまま振り向こうともしない彼女は、それからゆっくりと上体を屈めてほんの小さな声で「やめて」と呟いた。その身丈に合っていない官服は彼女を余計に小さく映して、今にも消えてしまいそうだった。
「…やめて、ください」
二回目の声ははっきりと、それでいて明らかに震えていた。
「わたしじゃ、ない」
私じゃない。もう一度呟かれた言葉に、心臓が軋みをあげた。
振り返った彼女の両目は遠くから見ても分かるほどに赤らんでいて、目を開けていることさえ辛そうに見えた。ナマエはベッドから降りるとじりじりと後ろに下がり、壁に背中を預けて立ち止まる。俯いてしまったせいで表情は見えないけれど、官服の袖を握りしめている手が震えていたから。金槌で頭の内側を殴られたような、そんな鈍い痛みが走った。
「……わたしは、あなた方を知らない」
息が、詰まる。声が出なかった。
「どうして、わたしの名前を知っているんですか…!」
ヤムライハは、彼女を知っていた。同い年くらいの、剣術や魔法を扱い、何よりいつだって笑っていたナマエを、知っていた。目の前の彼女はそんな"ナマエ"がただ幼くなっただけの姿であり、"ナマエ"であることに変わりはない。――そう、思っていた。
しかし彼女はヤムライハたちを知らない。なにも、知らないのだ。
「…そうだな、いきなりすまなかった。俺はシンドバッド、こっちの赤いのがマスルール、ジャーファルにヤムライハだ。君の名前を、教えてもらえるかな?」
こつんとシンドバッドの靴底が床を蹴る。一歩踏み出した彼に顔を歪めながら顎を上げた彼女の唇は何度も噛んでいたせいだろうか赤紫の斑点が散り、乾ききった唇の隙間から声にならない音を漏らしていた。
「……名前、なんて、もう知ってるじゃ、ないですか」
途切れ途切れに呟いた言葉に、シンドバッドが苦笑した。彼は少しだけ悩むような素振りを見せた後、
「……俺たちが知っているのは、もう少し大きくなったナマエのことだけだよ」
「……、未来の、わたし…という、ことですか……?」
驚くでもなく、馬鹿にするでもなく、彼女は文章を読み上げるようにそうかみ砕く。ああ、と頷いた彼にナマエは再び足元を視界に映した。陽光に反射して青く輝く彼女の髪は、まるで誰かの涙のように思えた。
「君はちょっとした事故に巻き込まれてね、幼い姿になってしまったんだ。だから俺たちは大人のナマエは知っているが、今の君の事はなにも知らない。嫌な思いをさせてすまなかった」
とてつもない長い間、音のない世界が広がっていたような気がした。
彼女は、どう思っているのだろうか。すべて嘘なのだと、笑っているのだろうか。
――いや、きっと。きっと、ひっそりと、泣いているのだろう。あの日の雨のように、違う世界の人間なのだと告げたあの時の涙のように。静かに、心の奥で泣いている。
「…、わたしは」
ひどく掠れた声だった。喉がつぶれてしまったかのような声が、なく。
「たったひとり、いきて、」
ずるずると床にしゃがみこみ、前かがみになって動きを止めた。
「それなのに、わたしは、わたしじゃない、の」
どちらもナマエだった。それでいて、目の前の彼女はナマエではなかった。ヤムライハが呼ぶべき名前は、一体誰を、呼んでいるのか。そんなことすらも、もうわからなくなっていた。
深く俯いてしまった彼女のつむじを呆然と眺めていれば、ふいに赤い輝きに目が眩んだ。どれほど太陽が傾いたというのか、窓から差し込む陽光がナマエをふんわりと照らし出す。その光をまるで嫌うかのように跳ね返していたのは、いつぞやにもらったといっていた彼女の銀の髪留めだった。光に当たれば青にも見えるような濃い髪をひとつに束ねるそれは、埋め込まれた赤い石だけが異様に浮き出ているように思えた。
きらりとこぼれた光が、赤い石に吸い込まれて消える。朝を告げる鐘の音が、やけにくぐもって聞こえた。
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