あれきり彼女は黙り込んでしまった。朝議の時間も迫っていたことから一度全員が部屋を後にすることとなり、既に太陽は西に傾きつつあった。
一日中彼女について解決策を考えている余裕は今のシンドリアにはなく、夕方を過ぎてもシンドバッドたちが集まって話し合う機会はつくられなかった。だからといってこのまま放置していれば元に戻るのかというのも怪しいところで、ヤムライハはまた自室にこもって皺くちゃの羽ペンを握りしめていた。


コンコン。


滅多に誰かが訪れてくることのない黒秤塔の研究室に、躊躇いがちなノックと共に予想だにしていなかった人物の声が考えに耽っていた彼女を呼んだ。どうぞといえば蝶番の軋む音の先で、白髪の男と金髪の少女を見た。


「珍しいわね、どうしたの?」
「ヤム、ちょっと一緒にきてくれない?」


散らかりっぱなしの本を跨いで少女、ピスティは椅子に座るヤムライハの腕をつかむ。部屋に入らずに廊下で待つシャルルカンの表情は、誰がどう見ても硬かった。大抵はお気楽そうに少したれ目の両目を細めているのに、この時ばかりはやけに真剣であったから、なんとなく想像できた。分かったわと彼女が引っ張る腕につられて立ち上がり、ランプの灯りを吹き消す。瞬間訪れた暗闇に、ドアから漏れる明かりだけを頼りに紙束を踏み越え外に出た。

きっと、真っ直ぐにナマエの部屋に行くのだろうと思っていた。だから紫獅塔の方へは行かずに中庭へと歩き出していた目の前の二人を思わず呼び止めて、立ち止まる。
柱の向こうでは、藍色が空を蝕み橙色を追いやっていた。


「二人とも、どこに行くの?」
「…お前、今自分がどんだけひでぇ顔してるか知ってるか?」


そんなのわかってるわよ、といつもなら彼の言葉は紛れもない彼女に対するからかいであったから、そう答えていたはずだ。しかし、今のシャルルカンはからかっているわけじゃない。分かっていながらも隣のピスティに目線を向ければ、彼女の瞳は彼と同じ色をしていた。
ぎゅうと、皺ができるほどに服を握りしめる。俯いた視線の先で、色濃い影が笑っている。目を閉じれば、あの鋭く痛い双眸がこちらを睨みつけているように思えた。


「…早く、元に戻してあげないと、」
「だから、今日もまた寝ないでずっと考えるの? …ヤムにしかできないことだけど、ヤムだけがずっとそうやって責任感じてなくたっていいんだよ」
「一回寝たら、案外簡単に思いつくかもしれねえだろ」


憎まれ口しか叩かない彼らの優しさを、なんだか気持ち悪いわねと笑って、私は大丈夫だからと。きっと一昨日までの彼女なら、そう伝えて、自室に戻って眠れたのだろう。それすらもできないほどに、やはり頭の中はぐちゃぐちゃとしていて考えは一向にまとまっていなかった。
ピスティの小さな手が、ヤムライハの手を握る。それはとても温かくて、優しかった。だから、胸の奥で沈んでいた本音があぶくのように浮いて声になりかけてしまって、尚更深く俯くしかなかった。


「…ヤム」
「……ちが、うわ」


堪えようとした意思に反して、掠れた声は容易に舌先から転がり落ちていく。


「わたし、魔法が好きよ」


愛おしいルフの羽ばたきを、小さいころから当たり前のように見てきた。今だって二人の柔らかなそれらが眩しくて、直視できないほどだというのに。自分の周りに漂うルフを、隠しこんでしまえたなら。そうしたら、自覚などせずに済むのだろうか。


「まほうが、好き。だから、それでナマエがあんな顔をするのは、いやなの」


どれだけ考えても考えても、どうしてあんなことになったのか分からないことが怖かった。複雑な魔法の解き方は、かけた本人でしか分からないというのに。その本人ですら分かっていないということが、どれほどの恐怖であるだろうか。
彼女が唇を噛むたびに、ピスティは手のひらを強く握りしめた。それが嬉しくて、そんな自分が嫌だった。


「だいじょうぶよ、絶対、私がなんとかする。その方法を見つけるわ」


にこりと精一杯の笑みを浮かべれば、二人は尚更顔を歪めてしまうから。それでも、自分にしかできないことなのだ。――いや、他の誰でもなく、彼女自身で、元に戻してあげたかった。


「ヤム、私ヤムが好きだよ。ナマエも、まだ少ししか話したことないけど、それでもどっちも好きだから! ねえ、明日みんなでナマエに会いに行こう? そしたら、またみんなで考えればいいよ」
「そうだな、どんだけ悩んだってわかんねえもんはわかんねえんだし!」


鳥似た羽ばたきが、耳元をかすめていく。頬を撫でるように通り過ぎていくルフに熱などないはずなのに、ひどく温かく感じた。
ぱちんと両手で頬を叩けば、驚いたように二人がこちらを見つめ、それからいつものようにけらけらと笑い始めた。


「明日、朝議が終わったら、行きましょう」
「おう。その前に、お前はそのばばあみたいな面なんとかしとけよ」
「うるさいわね、あんたこそナマエに変なこと言ったら中から沸騰させるわよ」
「あはは! 味付きゆで卵ができるね!」
「ピスティ! てめ、!!」


疾うに暮れて暗くなった辺りを明るくさせるランプが、柔らかに頬を照らし出す。尚も楽しげに笑うピスティの声につられたように、ふわりふわりとヤムライハの周りのルフが揺れていた。


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