眠りたくなかった。毎夜見る悪夢には魘され、深い爪痕を残していくから。それなのに体は重だるく、気づけばベッドで眠っていることが多かった。誰かに眠ることも悪夢を見ることも強制されているような気がした。
「…っは、ぁ…!」
心臓が軋みを上げる。息切れのする呼吸の苦しさに喘ぎながら身を起こし、肩を抱いた。
脂汗が額に浮かぶ。べとべとと気持ちの悪い汗を全身に掻いて、それでもそれらを拭う気力も気にする余裕もなかった。
(ここは、さばくじゃ、ない。デズエールじゃ、ない。みんなは、いなくて、それで、)
息がうまく吸えない。ごちゃごちゃとした頭の中を整理したくても居座り続ける真っ赤な記憶に意識を持っていかれて、指先すら動かせなかった。
「…っ、あ゛――!」
声が、鳴き声が、悲鳴が。頭の中で響いて響いてどうしようもなく気持ち悪い。動き、痛みもない左腕が気持ち悪い。苦しいのに、痛いのに、悲しくて虚しくて遣る瀬無くて怖くて腹立たしくてぐちゃぐちゃとしているのに、心のどこかでそれらをすべて受け止めている何かがあることが気持ち悪くて仕方がなかった。
誰もいない。名を呼んでも、どこを探しても、愛おしい彼らはどこにもおらず、たったひとり。たったひとり、生き残って息をしている。突き立てた爪が腕に食い込む。ひりひりと訴える痛みが煩わしい。痛いと感じることが、腹立たしい。
見覚えのない豪奢な部屋に吐き気を覚えた。いつも身に着けていたペンダントと魔導器が変わらずあることにほっとした。泣けばいいのか叫べばいいのか笑えばいいのかもう何もかもよくわからなくて、手近にあった枕を投げ飛ばした。それから力任せにチェストを蹴飛ばし、花瓶を床に叩き付けて鮮やかな花びらを踏みつける。割れた花瓶の破片が足裏に突き刺さり、まき散らした水に赤が広がった。ちのにおいが、鼻を衝いた。
「っあ、あああ゛あ…!!」
死に際の獣のようなうめき声が、喉から吐き出される。硬く冷たい床に膝をつけば、血の臭いは一層強くなった。割れた破片がそこら中に散らばっていようと気にも留めずに、固めた拳を振り下ろす。びちゃりと水が跳ねた。それから赤が跳ねた。鋭い痛みが走った。それでもやめなかった。
「な、にしてるんだ!」
派手な音を立てて扉が開かれる。それと同時に飛び出してきた誰かが彼女の腕を掴みとり、声を詰めた。唇が震えて、言葉が落ちた。
「…せ、て」
貴族も平民も、分け隔てなくみな"本物の騎士"を目指していた。その道はまだ途中で、きっとあの人について行けば自分の目指す何者かになれると確信していた。まだ、その途中だったのに。
身体から力が抜けていく。びしゃりと水たまりに肘を突き、額をこすりつける。彼女の腕を握りしめていたその大きく骨ばった手は尚更力を込めた。
「…しな、せて」
ひねり出すように漏れた声は嗄れていて、熱くなった目尻から幾筋もの涙が頬を伝う。
なんのために、生きているのだろうか。生きろと言った彼らの声が、遠い。笑い声が、聞こえない。
立ち上がりたくない。歩きたくない。前を向くことも、明日を生きることも。もうなにも、したくない。
「…ナマエ」
柔らかな声が彼女の名を呼ぶ。その声に感じる聞き覚えのような曖昧な感覚は、今の"ナマエ"のものではない。"誰か"は右腕を離し、両肩を掴んで丸まっていた上体を無理やり起こさせる。視界に映ったのは、緑のクーフィーヤと夜に映える銀髪だった。
「…あなたはここで、生きている」
耳を閉ざした。声など、聴きたくない。ききたくない。なにも、音も、言葉も。目を閉じた。ぼろぼろと落ちるそれは止むことをしらない。
「どれだけ辛くとも、あなたは生きるしかないんだ。何があっても、絶対」
真っ赤に染まった右手が、彼の胸元を叩いた。勢い弾けた丸い粒が彼の白い頬に飛び散る。目を逸らすことも細めることも睨むこともせずに、彼はただ真っ直ぐにナマエを見ていた。
「――なにも…なにも、知らないくせに! なにも、なにひとつ、知らない、くせに…!」
もう一度強く胸板を殴りつけた。言葉は、続かなかった。
生きろと、何を以て告げるのだ。生きることも死ぬことも朧で苦さしか覚えない心臓に、なにを期待しろと言うのだ。
だらりと腕が落ちる。水たまりに落ちた手のひらを冷たいと感じるには、あまりに思考が遠すぎた。
開け放たれた扉から漏れるランプの灯りが膝元で揺れる。その揺らぎに飛び込めば、あの穏やかな日々に、帰れるのだろうか。みんなのもとに、戻れるのだろうか――。
ナマエと、その名を呼んだのは誰であったのだろうか。その声は小さすぎて、嗚咽に紛れて消えてしまった。
「っ」
「ナ、――!?」
一刻も早く、逃げ出したかった。どこでもいい。ここがどこなのかも分からないが、遠くへ、ただひたすら、遠いどこかに。
背中でかかる制止を振り切って、暗い廊下に飛び出した。
走れば走るほど息が詰まる。床を蹴る素足が痛い。
耳元で囁かれる声を辿っていた。懐かしい声を追いかけた。走り抜けた先が、あの砂漠でもいい。砂に足を取られて何度転ぼうと、皆と同じ場所にいられるのなら、それでいいから。
こんなところで、たった一人でなんて生きられない。
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