朝からいつものごとくたいして休憩も取らずに黙々と仕事に取り掛かっていれば、何故か早く蹴りがついた。恐らくそれは珍しく王も執務室に籠りっ放しで仕事を捌いていたからだろう。普段から真面目に執務をこなしてさえくれれば、文官皆あんなにも疲弊することはない――はずなのだ。はあと最早癖と化した溜息を吐いたときだった。
小さな音がした。紫獅塔の自室に戻る途中であった彼、ジャーファルはその音に首を傾げて足を止めた。賊の類かとも思いはしたが、一応ここは紫獅塔というだけあって警備は厳重である。彼がすっと耳を澄ましてみたとき、何かが割れる音がした。彼が常人より耳がいいことを措いてもそれなりに響いたその音を辿り、階段を駆け上がる。ほぼ確信に近いもので、その音が出された部屋が"あの部屋"だと思った。寧ろ、それ以外の考えは思いつかなかった。
勢いよく扉を開け放つ。刹那僅かに鼻を衝いたのは、嗅ぎ慣れた血の臭いだった。割れた花瓶の破片が散乱するベッド脇に座り込む少女を見つけたとき、血の気が引いていくような、反対に頭に血が上るような、どちらにせよ穏やかとは言い難い感情が脳内に犇めいた。なにをしているんだと、思ったよりも大きな声が喉を通った。
破片の散らばる床を殴りつけるその右腕を掴み、言葉を失った。赤い水がだらだらと彼の手にもかかる。
――死なせて。
嗄れた声は、確かにそう呟いていた。まるで誰かの赦しを乞うているかのように、額を床にこすりつけてひたすらに哭く彼女の姿に、思わず握りしめた手に力がこもる。
赤く染まる白い花が、踏みつけられたのか萎れて足元に落ちていた。引きちぎられた花びらが、破片と共に散らばっている。目の前では相変わらず死なせてと呟いていた。
何も知らなかった。幼い彼女がこんなにも哭く理由も、物にあたる理由も、死を願う理由も。なにひとつ、知らない。知ろうとすら、別段思わなかった。このまま時が経てば元に戻り、何事もなく日常に帰っていくのだと思っていたから。
だから、迷っていた。
「…ナマエ」
名を呼ぶことなど、恐らくないだろうと思っていた。不慣れな言葉の羅列が舌先で転がる。こと名を呼ばれることを厭っていた彼女は小さく肩を震わせた。――この目の前の少女を果たして、ナマエという名でもって呼ぶことが合っているのだろうか。確かに、他の名も呼び方も知らないけれど。
その細い肩を掴んで身を起こさせれば、痛いほどに顔を歪ませて哭くナマエが見えた。
「…あなたはここで、生きている」
本当はここではない"どこか"で、彼女は生きているはずだった。それでも確かに、今はこのシンドリアで生きている。息をしている。
透明な涙が目尻に溜まる。懐疑と嫌悪に似た感情を湛える双眸が歪む。やめてと声もなく紡がれた唇の意味を知りながら、それでも柔らかな息を吐くように言葉を落とした。
「どれだけ辛くとも、あなたは生きるしかないんだ。何があっても、絶対」
青い瞳が見開かれた。僅かに赤く充血した白目が睫毛の影に潜む。ひゅうと、どちらかの乾いた音が漏れた。
彼女は過去の人間ではない。過去を振り返っているだけで、記憶を思い出しているだけで。――或は思い出させているだけで。彼らが知っている彼女は確かに、生きていたのだから。
何も知らないくせに、と再びぼろぼろと泣き出した彼女は一度、二度とジャーファルの胸板を殴りつけた。じんわりと襟が赤く染まり、頬に何かが跳ねた。強いとは言い難い拳に、それでも心臓を押し潰されているような息苦しさを覚えた。
知りたいとは、思わない。彼にとっての過去は蓋をしてしまいたくなるような温かさと苦さの混在したものであり、何人たりと踏み込まれたくない場所である。それと同じように、誰にでもあるその"隙間"を、土足で踏みつけるようなことは仮令どんな相手にだろうとしたくはなかった。その過去を悔いているような相手なら、尚更。
びしゃりと膝元に溜まる仄かに赤い水の中に沈む彼女の手のひらを、見ていた。長く剣を握り振り続けてきた故の肉刺は、なによりも彼女が彼女であるための証なのだろう。
それ以外は、なにも知らなかった。
「っ」
「ナ――!」
ふいに立ち上がり走り出した彼女の腕を、つかみ損ねた手が空を切る。開けっ放しの扉を右に曲がった背中を眺めて数瞬、奥歯を噛んで追いかけた。
青白く光る廊下に赤の足跡が異様に浮かび上がって見えた。かの世界で着ていた服は目立つからと渡した官服が翻るのを見つけ、暗闇に逃げたそれに小さく舌打ちする。
彼女に苛立っているわけではなく、なによりも浅はかな己自身が腹立たしかった。各々の十年前と誰しもが同じ人間であるはずがないのに、知らずに重ねては言葉を吐き出していた。彼女は幼い。幼く弱い、ただの小さな子供なのだ。
階段を駆け下りる音に手すりから身を乗り出し階下を見下ろす。最後の数段に差し掛かろうとしている姿に、彼は迷わず手すりに手をかけ飛び降りた。靴底から伝わる衝撃に目元を歪めてすぐ傍にまで近づいた彼女の腕をつかむ。恐ろしいほど、冷たかった。
「…っはな、して…!」
空いた片方の手でジャーファルの手を離しにかかるが、彼の手の甲にひっかき傷を残すのみだった。蚯蚓腫れの赤い線が甲を這う。ぷくりと血の玉が溢れた。それに気付いたナマエは顔を歪め、目を逸らす。呟きかける唇が言葉を紡げずに迷っていた。
「……騎士なんて、ならなければ…」
涸れたと思っていた涙がもう一度はらはらと頬を伝い落ちた。
「うまれてなんて、こなければ…っ」
掠れた声が叫ぶ。彼はゆっくりと階段を降り、二段高い彼女の赤く腫れた両目を見つめた。
「過ぎてしまったものは、なかったことになんてなりません」
ひどく冷たい両手を包むように握りしめる。小さな手は彼の手の中にすっぽりと収まってしまった。
「あなたがこの先で出逢うはずの人たちも、すべて否定しないで。なかったことに、しないであげて」
どんなときでも笑ってばかりいたあの人は、そうすることを選んだのだろう。哭くことも嘆くことも、ただその両足を重くさせて沈ませていくだけだからと。本当の理由など、知りもしないけれど。
「…いまはゆっくりでいいんだ。いつかきっと、あなたはちゃんと、前に進めるようになる」
幼い少年の影を見た。もう遠い遠い昔の影が、踊り場の向こうで泣いている。もしかしたら、一人きりだと泣いていたあの子と、同じなのかもしれない。赤い糸の絡む両手で、縋れるものを探していたあの子と。
「……大丈夫ですよ」
一人じゃなければ、大丈夫。
口をついて出てきた言葉に小さく笑う。塗り固められた懐疑の色が変わっていくのがなんとなくわかった。
あの頃欲しがっていた言葉は確かに、そこにあったのだ。
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