ノブにかけていた手を離す。生唾を渇いた喉に押し流して、もう一度ノブに触れては躊躇った。
泣いては、いないだろうか。声を押し殺して、何も映さない両目からはらはらと透明な涙を流してはいないだろうか。
もしそうであればなんと声をかければいいだろうか。彼女にはその痛みを取り払ってあげる術を持ちえておらず、そうなってしまう理由もまた、知らなかった。
「…ヤム、大丈夫?」
「……ええ」
隣で珍しく口を閉ざしていたピスティは、心配そうに大きな瞳を揺らがせてヤムライハを見上げていた。それ以上言葉を重ねないのは、恐らく彼女も同じような心持ちだからだろう。躊躇うヤムライハの手を退けて、彼女がこの扉を開けてしまわないのは怖いからではなく、ヤムライハがそうしたいと願ったからだ。
ヤムライハは手に持っていた水の入ったコップを握りしめ、細く息を吐く。兎にも角にも、この重たい扉を開けなければ何も始まらない。何も、伝えられない。
ごくりと喉を鳴らして、それからゆっくりと扉をノックした。
「――…どうぞ」
確かに、この分厚い扉の向こうから声がした。彼女の名前を呼ぶことは、やはり躊躇われたから「入るわね」と声をかけてからノブを捻る。蝶番が鳴いて開いた扉の隙間から、風が流れた。
彼女は相変わらず扉に背を向けてベッドの上に座り込んでいた。すとんとそこからこちら側に下りて振り返る。それでも彼女は、どこまでも空虚で冷ややかな視線を向けるのではなく、ヤムライハとピスティを見つめて向かい合った。視線が絡む。二人もナマエを見ているし、ナマエも二人を見ていた。
「…何か」
「あ、いえ…その、」
その事実がどうしようもなく嬉しくて、思わずどもった。用意していたはずの言葉が喉を下って腹の奥に沈む。声ばかりが先走り、無意味な言葉が舌先から転げ落ちた。そんな彼女にピスティがくすと笑って、「何言ってるのかわかんないよ、ヤム」と服の袖を引っ張る。魔法書を読み明かしているときのように熱を帯びる頭を必死に落ち着かせて、柔らかに微笑んで彼女に近づいた。足音を鳴らしても、ナマエはただ黙ってヤムライハを見上げていた。
「調子はどう? きっと喉が渇いてるでしょうと思って、」
まるで初めて言葉を交わしたあの日のように、コップを差し出す。この透明な水に、同じおまじないをかけて。
ナマエは一瞬呆けたように瞬きを繰り返し、ぎこちない動作でコップを受け取った。ありがとうございます、と掠れた声が告げる言葉に心臓の奥で小さな何かが解ける。飲んでもいいかと問うてきたので勿論と答えれば、かさかさに乾いた唇をコップにつけてごくりと喉を鳴らした。どうやら魔法の反発はないようで、僅かに動いた表情に安堵した。ちゃんと、効いたいるみたいだ。青白い頬に赤みが差すのも、そう時間はかからないはずである。
余程喉が渇いていたのか一気に飲み干した彼女は空になったコップを両手で包んで、小さく頭を垂れた。――そこで気づいた彼女の右手にまかれた包帯に、一瞬息を詰める。
「有難う、ございます」
「…よかったわ、だってずっとなにも食べてもいないものね。お腹減ってるでしょう?」
随分と低くなった彼女の目線に合うように腰を屈めれば、少しの間をあけてふるふると頭を振った。いりませんと消え入りそうな声でそう拒むものだから、どうしたものかと後ろのピスティと顔を見合わせる。しばしの沈黙が三人の間を流れたとき、ピスティが「あ」と声を上げた。
「そうだ、お風呂入ろう!」
「ピ、ピスティ? いきなり、何言って――」
「だって女の子なのにずっとお風呂入れてないでしょ、それじゃあ何もしたくないもんね!」
手のひらを打ってにこにことする彼女の言葉に納得しかけて、そろりとナマエを見やる。彼女は引きずるほどに身丈に合わない官服を握りしめて、俯いていた。
何も口にしないけれど、ほっといてと言わないあたり落ち着いてきてはいるようだ。どうすると朗らかに笑う彼女をナマエはちらりと見て、それからゆっくりと頷いた。
「八人将のところの浴場なら今誰も使わないだろうし、そこならいいよね」
それなら早速、と来た道を戻ろうとするピスティにほっとした。彼女のそんな明るさが、ナマエにも伝わっていればいい。
案内するよと腕を引こうとした彼女だったけれど、ふいに動きを止めた。ナマエより背の低いピスティが戸惑った顔をしてヤムライハを見上げる。青く長い髪が風の所為ではなく揺れた。
「…わ、たしは」
幼い彼女は、未来であんなに笑っていた代わりとばかりにこんなにも泣き虫だった。いや、こんなにも泣いていたからこそ、なのかもしれない。
「わたしは…」
薄く開いた唇を、ぴたりと縫い付ける。相手は自分を知っていて自分は相手を知らないというのはやはりとても気持ちが悪く、しかもその理由が未来だ現在だとよくわからないものなのだから彼女が口を閉ざしてしまうのも当たり前の反応なのだろう。
理解は、していたつもりだった。だからもうナマエとは呼ばなかった。ああ、順番を間違えてしまったのだと過る後悔に唇を歪める。
「そうね、自己紹介を忘れていたわ。私はヤムライハで、」
「ピスティだよ」
壱がないのであれば、零から始めればいい。十を知っているほど、彼女とはまだたくさん話せていなかったのだから。これから積み上げていけば、いい。そうしてもとに戻った時に、また日々を積み重ねていければ、それで。いつか"元の世界"に戻る日がくるまで。
ナマエは顔を上げ、青の瞳を揺らがせた。震えた唇が何かを呟こうとしていたけれど、それは声にならずに別の言葉となって吐き出された。
「……ナマエ、ディノイア…と、いいます」
ふらりと頭を下げた拍子に襟の中に仕舞われていたペンダントが顔を出す。カラン、と小さな音がした。
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