ナマエとロゼが使っていた部屋へ着替えを取りに戻りそれから浴場へと向かいながら、ほとんど一方的にピスティが喋り続けていた。相槌を返し言葉を交えるのはヤムライハばかりで、大抵は固く口を閉ざして時折頷くほかに反応を示さない彼女にどうしたものかと二人で顔を見合わせた。これは長期戦になりそうだとどちらともなく微苦笑した。
「…そうそう、もうすぐ煌帝国の皇子様が来るみたいだね」
「もうそんな――まだ、結界にひびを入れたのが誰かも分かっていないのに」
浴場の外廊下の入り口の前で二人並び、忙しなく通り過ぎる侍女を横目見ながら唐突なその話題に一瞬目を伏せた。ヤムライハとしては何よりも、結界にひびがはいっているという事態の解決がまだされていないことからくる不安に顔を歪めてしまうが、そんなものはとうにシンドバッドが考えていることだろう。それをわかっているうえで、煌帝国からの使者を迎え入れると決めたのだ。"もし万が一"を起こさせないためにも、彼女たち八人将はいるのだけれども。
結界に対する不安はピスティもやはり少なからず持ってはいるようで、「警備が厳しくなりそうだね」とこぼした。その能力から主に商船や港の方の警備を担当することが多い彼女にとって、それは確かに肩に重くのしかかるものがある。――どこの担当であろうと変わらないと言えば、そうなのだろうが。
「それなら尚更今日にでも一度、ナマエ自身を調べておきたいわね…もう、思いつく限りの可能性を消していくしかないわ」
「でも、ちゃんと寝なきゃだめだからね。また徹夜とかやめてよ?」
「――わかってる」
約束するわ、とぎこちない笑みを浮かべた。
二人に言われた言葉は、まだ鼓膜の内側で響いている。柔らかな言葉も笑みも、忘れたわけではない。
「……たとえば」
「え?」
長い睫毛の奥に隠れた瞳が揺れる。背の低いピスティを覗き込むように腰を屈めれば、彼女は少し俯き加減に飾り気のない向かい側の壁を見つめた。
「…もしも、自分の好きな時間に戻れるような魔法があれば…」
「ピスティ、」
「ナマエはもしかしたら、そんな十年前に、戻りたかったのかな」
例えばの話であるとは分かっている。そもそもそんな時間の"巻き戻し"ができるような魔法は少なくとも彼女は知らないし、時空を飛び越えることなんてあってはならない魔法だと。ただ、だからこそ彼女のあの記憶の混在は精神感応系応用魔法の延長であると考えられた。記憶を呼び起こす、という魔法がかけられたのだと。
ヤムライハは瞬きを一つして、壁に頭をもたれさせた。
「……その人それぞれの事情を知らないけれど、もし私だったら、あんなに苦しむような過去に戻りたいと思うかしら――」
「…そう、だよね。ナマエが望んで、自分で魔法をかけたとかじゃあ…ない、もんね」
そのままふった沈黙に、彼女は息を詰めた。
苦しくともその時が一番の幸福であったなら、戻りたいと願ってしまうのかもしれない。
『なんでわたし……っ生き、てるの』
目が覚めて開口一番に誰かを問うたあとに口にしたその言葉は、そういったことを望んでいたのだろうか。そこから考えられることは彼女にとって十年前がそんな生死すら危うい状況であったということのみだけれど、はたしてそんな日々に戻りたいなどと――。
午前の喧騒も遠く思うような沈黙を破ったのは浴場のドアを開ける音で、乾ききらない髪を後ろでまとめたナマエがおずおずと隙間から頭をのぞかせた。ずるりと長い裾を引きづるような着方にふいに微笑が漏れて、ヤムライハは曖昧に唇を震わす彼女の背を押してもう一度部屋の中へと押し戻す。
「これは帯で裾をあげるしかないわね」
「私の服を着るっていう手もあるよ――」
「それは無理があるでしょう」
「あ、の――」
「はい動かないで」
上下に分かれている官服のスカートを上げて腰紐で重ね縛り上から帯で留めれば、足首から下が裾から顔を出した。これできっと歩きづらいこともないだろう。よしできた、と声を上げれば隣でピスティが「あれ靴履かなくていいの?」と首を傾げた。そういえば以前までの彼女ならばスカートの下にパンツとブーツをはいていた。ナマエは一拍間をおいて、
「…あれは、大きくて爪先が重いんです…」
「爪先が? ――ああ、」
シャルルカンと手合わせしていた時にジャーファルやシンドバッドがそんな話をしていたかもしれない。重しを入れているんじゃないかとあれは推測でしかなかったが、やはり実際そうだったようだ。"ある意味"慣れているはずのつま先の重さを明確に重いと感じるということは、考えていたように単に背が縮んだだけというわけではないらしい。頭の中で昨夜考えていた可能性の中から思い当たるものを照合して枠からはじき出した。
「これですっきりしたし、いつまでも部屋の中じゃあつまんないだろうし外いこ外! 今日もこんなに天気いいし勿体ないよー」
「…あの」
ナマエが自分でまき直した包帯の不恰好さをぼんやり眺めながら、彼女が逸らす視線に気づく。
「……何か、この大陸に関することでも、なんでもいいです。私は…本が読みたいです」
恐らくヤムライハはこの先しばらく、この時のピスティの顔を忘れることはないだろう。
それじゃあ黒秤塔へ行きましょうと告げた彼女の言葉に、同類かとぽつりと漏らした言葉が重なる。堪え切れずに吹き出せば、僅かに目を細めて見上げてくるナマエと目が合った。魔法を使う人間は、どこの世界でも似たような感覚を持っているのかもしれない。
差し込む朝日が濡れた青い髪を容赦なく焼き付けていた。
(※ 靴のひみつより)
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