今でも思い出すと苦笑いを零したくなる程違和感を覚える。良心の発露とでも言ってしまえば体はいいが、恐らくそんなものではないのだろう。だろう、というからには自分自身ですら測り兼ねていることで、きっとあの瞬間に救うだの助けるだのといった感情は持ち合わせていなかったのだと思う。ただ、昔の自分に重ねてしまっただけで。
――それでも、二度目の夜でのあの言葉が頭をちらついたのは紛れもない事実だった。


「…珍しいですね」


腕が痺れるほど山積みの書類を執務机に乗せる。ここ最近珍しく一日執務室に籠る王の姿に、思わずそんな言葉が出た。今までを思えばそれは嬉しいことこの上ないことではあるのだが、いつもと違うことが続けば勘ぐりたくもなる。それもこのタイミングで、だ。
言わんとしていることが分かったのか、この目の前の王――シンドバッドは少しだけ苦い笑みを浮かべた。そんなつもりはないんだがな、と呟いた言葉のどれが本音なのかは、長く一緒にいたからだろうか、なんとなくわかってしまった。


「海路も順調なようですし、もうすぐ煌帝国の船団もつくでしょう。警備の強化については朝議で話した通り、八人将もそれぞれ対応していくつもりです。――厄介なことに、ならなければそれがいいのですが」
「ああ、そうだな」


ふうと小さく息を吐いた彼は椅子に深く腰掛け、ゆるりと窓の外を見やった。
――仮令、願うものと変わってしまったとしても、彼はどこまでもこのシンドリアの国王だった。この王宮の先には民がいる。彼らを見るシンドバッドの瞳は二つしかないが、シンドバッドを見る瞳は民の数以上にある。それは、どれほどの重荷なのだろうか。
ジャーファルも同じように、けれど異なった意味で息を吐いた。


「アリババくんは、大丈夫でしょうか」
「大丈夫さ、彼は強い」
「そう、ですね」
「歯切れが悪いな、信じてないのか?」


どちらをです、といいそうになって笑う。信じてますよと伝えれば、揺るがない双眸を細められた。だからこそここに、ジャーファルを含めて皆がいるのだから。
一呼吸の間をおいて、シンドバッドはそれからと凭れていた背をあげ机に手を置く。煌びやかな宝飾品の揺れる音が、耳を通り抜ける。


「ヤムライハとも少し話をした。そこからの俺の推察ではあるが、あの魔法は外部からのものではないかと思ってる」
「外部から、ですか」
「ああ、何が目的かも分からないが、もし時限式の魔法や条件付きのものがあるならば可能だというし、元々ナマエ自身が持っていた何らかの魔法がヤムライハの魔法に感化されたという可能性もある」
「……たとえば、王宮内に入り込むため、という目的かもしれないということですよね」


シンドバッドはなにも言葉を重ねなかったが、逸らさない双眸が暗に告げていた。


「幼くなることでなんのメリットがあるかもわからん。が、精神的に不安定であることに意味があるのかもしれない」
「結局あなたは彼女を疑っていると」
「そうはいってないさ。ただ、こうなってしまったことの意味を探しているだけだよ」


掛けた本人でしか解けない魔法の解析というのがいかに難しいかはそれなりに理解はしているつもりだ。だからこそ、その魔法をかけるに至った理由を探していくしかなかった。あっているのかどうなのかも全く分からない状況ではあるけれど、警戒すべき状況であることに変わりはない。
ジャーファルは一瞬目を伏せた。精神的に不安定なことに意味があるといった彼の言葉に思い当たったそれは、彼女に対しては何の効力も示さないだろう。何せ、彼女にはルフがないのだから。


「とにもかくにも、今日明日あたりにあの子自身にかかる魔法を調べてみるというから、その結果を待つしかないな」
「謝肉宴前の記憶がせめてあれば、話でも聞けたのですが」
「まあ、たらればの話はしても無意義だろう」


思わず言葉に詰まれば、シンドバッドはくくと小さく笑った。



*  *  *



本が読みたいと言った彼女とともに黒秤塔へ向かったまではよかったのだが、そういえばこの世界の文字が読めなかったナマエは本を読むことより先に基本的な文字を覚えることから始まった。幸いなぜか言葉は通じるのと、文章構成がどうやらあちらの世界と似通っているようで割合教えやすく彼女も覚えやすかったようだ。ピスティと談笑も交えながら教えていれば、あっという間にお昼になっていた。正午を知らせる鐘の音に気づいて、食堂へ行こうと誘えば小さくようやく頷いてくれた。何人かの官吏に顔を知られていることからあまりやたらと動き回れないので――黒秤塔はもとから彼女を見知らぬ人しかほとんどいない――彼女の髪を赤みがかった茶髪にすることにした。印象も変われば雰囲気も変わる。これならロゼにも気づかれないだろう。いや、気づかれてはいけないと言われたわけではないけれど、いまだ説明のしようがなく病気と称して紫獅塔にいることは伏せていた。


「あのねナマエ、お願いがあるの」


パパゴレッヤのジュースをちびちびと飲んでいた彼女はゆっくりとヤムライハを見て「何ですか」と答える。――以前もそうであったけれど、順応力というのか、それとも顔に出したくないからなのか、傍から見てもある種異常ともいえるように思えた。


「…あなたにかかっている魔法を知らべたいの。午後少しだけでもいいから」


ことんとコップを机に戻し、彼女は一瞬遠くを見た。


「……それは、その魔法がわかれば、わたしはどうなりますか」
「――そ、れは…もしすんなりと解析が進めばきっと、」


元に戻れるわ。そう、続けてはいけないような気がした。その言葉は今の彼女を否定することに、なってしまうのではないだろうか。別人ではないということは、ヤムライハたちからすれば確かにそうなのではあるが、けれど何を以てそう言い切れるのだろう。考え方や仕草や顔つきや身体的なものや、それらのどれを、あるいはどれだけがそろっていれば同じ人間で異なっていれば別人だと。目の前の彼女は、紛れもないナマエであるというのに。
言葉に詰まるヤムライハにピスティは、


「…いま、帰りたいと思っている場所に"ナマエちゃん"は帰れるよ」
「帰りたい、場所…」
「うん、帰りたい場所」


彼女ほどに、器用ではなかった。否、器用とも違うかもしれない。それでも、そんなふうに答えを出したピスティの言葉は、ずんと重たかったような。それでいて軽くなるような、そんな思いを残していった。
お願いしますと頭を垂れたナマエは、その内心を推し量れるほどにたいして顔には出さなかった。

それから夕方ごろまでピスティも一緒にいてもらいながら魔法の解析を試みたけれど、案の定これといって目ぼしい成果は上げられなかった。そのあとも何度かしてみたけれど、それは嫌な予感ばかりを募らせていく原因にしかならなかった。


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