自分のうめき声で目を覚ました。相変わらず慣れない豪奢な部屋に跳ねる呼吸音ばかりが響き、よろよろと起き上がっては白んでゆく空を見つめた。だらりと背中から垂れた赤みがかった己の髪にぞっとして、素早くベッド脇のチェストに置いた銀の髪留めで後ろに一つに縛り上げる。出歩くならそのほうがいいだろうと、恐らく彼女の髪が元々青みの強かったことからこの髪色にしたのだろうけれど、夢から覚めるたびに嫌な錯覚を覚えるのだ。まるで、血にまみれているような――。


「……小、隊長…みんな…」


心臓が脈を打つ。この薄い皮膚の下に、温かな血が流れている。
上半身を屈ませて、真っ白な布団を握りしめた。南部地方特有の暑さのせいで背中にじわりと汗がにじんだ。


『一人じゃないなら、大丈夫』


夜の暗闇にひっそりと浮かぶ月のような髪をした彼は、確かにそう言っていたけれど。この見知らぬ世界に、たった一人だけではないか。気の置けない仲間も、見知った顔ぶれも、歩き慣れた大地もない、知らない世界。これでどうして、大丈夫などといえるのだろうか。これで、どうして。
――どうやって、生きればいいのだろう。
誰も、答えてくれない。誰も、隣にいない。どうせ答えてくれる者もいないのなら、あの砂漠の砂で喉を埋めてしまうように、虚しい問いかけすら灼けてしまえばよかったのに。
もうずいぶんと涸れたと思っていた涙がはらはらと零れ落ちたのを、ただずっと眺めていた。





本が読みたかった。とにかくなんでもいい、この世界に関するあらゆるものを読み漁れば、少しでも元の世界に帰れるなにかが見つかるのではと思ったから。しかし言葉は通じるのに文字は読めず、結局昨日は本を読むどころの話ではなくなってしまった。それならば早く文字を覚えるのに越したことはない。ベッドから降りた足は自然と昨日の図書室へと向かっていた。廊下で官吏たちとすれ違うたびに異様な視線を向けられるので、仕方なく人気の少ない道を選び大体の方位に頼りながら手探りで進む。歩けども歩けども似たような廊下ばかりで息が上がり、ふいに外を見れば中庭のような広々とした空間に出た。
ここはあなたにとって違う世界なのだそうだと告げた声が脳裏に過る。あの大きな化け物が各地の結界を壊していたということもあったので、あの時はきっとここもその被害に遭ったひとつなのだと決めつけていた。それでも、窓から見えたこの島の人たちの空気はあまりに幸せすぎた。結界もなく、こんなに穏やかな場所など知らない。違う世界、という言葉を、漸く頭で理解する。腹の奥底から湧き上がる苦味を、口元に手をやることで抑え付けた。


「ほら、やっぱりナマエさんだ!」


ぺたぺたと忙しない素足の足音が自身の方に向かって聞こえるので、きっとその呼ばれた名も彼女を呼ぶものなのだろう。目線だけをちらと音のする方へ向ければ、彼女とさして変わらなそうな年の赤い髪の少女と青い髪の少年、そして年上の金髪の少年がそこにいた。青い髪の少年が嬉々として手を振りながら、笑いかける。紛れもない、"ナマエ"に対して。


「久しぶりだねえナマエさん! なんだかモルさんみたいだね!」
「お本当だなアラジン! 遠目からだと全然気づかたなかったぜ。っていうかナマエさんどうしたんです、その恰好? ヤムライハさんの魔法ですか?」
「お二人とも、少し落ち着いた方が、」


笑い声が、響く。まるで頭の内側を金槌で殴られたような鈍い痛みが広がった。じりじりと後退する足を、金髪の少年が首を傾げて再び「どうしました?」と問いかけた。
彼の瞳に映るナマエなど、知らない。今の彼女とナマエは違う人間で、そうやって親しげに"ナマエさん"などと呼ぶ相手ではないはずだ。
――気持ち悪い。何を答えればいいのか分からず、どもる声が脳内で反響する。
押し黙り続ける彼女を訝しみ、そうして三人は顔を見合わせて重苦しい沈黙が降った。


「…わ、たしは」


なんと、言葉が続くのだろうか。"私"というべき人間はナマエという名を持ち、誰しもがナマエと呼ぶ人間と元は同じものであったという。本人の自覚は捨て置かれ、半透明な名だけが細々と意識を繋いでいる。そのつながった両端は笑えるほどに拙く脆いというのに。


「……わたしは、ナマエじゃない――!」


気付いたら唇は言葉を吐き出して、両足は彼らに背を向けて走り出していた。頭の中で、小隊隊員の名前を繰り返す。繰り返して、思い出して泣きそうになって、走っていた。彼女自身のあがる息の後ろで、誰かの足音が聞こえた。それはナマエの予想以上の速さで追いかけてきて、がしりと強く腕を掴まれた。思ったよりも、小さな手だった。


「っはな、してくださ…」
「離しません」


モルジアナ、と後から続く二人の呼び声に少女は振り返り、それから再び彼女を見た。ただ床ばかりを見つめていたナマエには三人の表情などわかるはずもなかったけれど、比較も否定もなにも聞きたくはなかった。


「…わたしは、あなた方が知っているナマエではありませんし、わたしはあなた方を知りません」


吐き捨てるように言い放った言葉がやけに廊下に響いたような気がして、尚更裸足の己の足を見つめた。治癒術を使えば簡単に治る足裏の傷も右手の傷も、残していることでなんの意味を成すというのだろうか。ただの自己満足であることは、きっと理解はしていた。だからこそ、自分は誰よりも悲劇的な人間だったのだと慰める奥底の声を聞く。たった一人戦場に残り世界は変わり人格の比較と眼差し他すべて。――どうして自分なのかと思えば、悲しみに暮れれば、何も見なくて済んだから。


「…ど、いうことだ? 魔法ってこんなことにもなんのかよ」


ぼそりと呟かれた声は戸惑っていて、離さないと告げた手は力を緩めていた。その隙にでも、背を向けてまた逃げればよかったのだけれど。少年のあっけらかんとした声に、引き留められたのだ。


「そっか……、うん、僕はアラジン、よろしくねナマエさん」


ずいと俯く視界を切り裂くように伸ばされた小さな手が、真っ直ぐに向けられる。アラジンといった少年の青い髪が陽光にきらめいて揺れ、穏やかな笑顔は眩しかった。彼の手を追いかけている内に無意識にあがった視界の先で、赤い髪の少女が掴んでいた腕を離して目元を緩める。吊り上がった特徴的な瞳の柔らかさが、心臓の裏に爪を立てる。


「私はモルジアナといいます。よろしくお願いします…腕、思い切り掴んでしまってごめんなさい」


アラジンの手がナマエの手を捉える。仄かに温かく、指の付け根にはできたばかりの柔い肉刺があった。


「…俺はアリババっていいます。ナマエさんには師匠との剣術試合見せてもらって、それで…えっと――」
「僕たちあんまりナマエさんとお話しできなかったから、たくさんお話しようよ! ナマエさんはこれからどこにいくんだい?」


アリババの会話を遮るように問いかけた言葉に視線を泳がせた。目を合わせることができずに、それでも俯くこともできるはずもなく、渇いた喉に生唾を飲み込んだ。


「……と、しょかん、です」
「黒秤塔か、もしかして元に戻る魔法探すつもり?」


"元に戻る魔法"の言葉に思わず瞼が震えた。元の世界に戻れる"魔法"は、あるのだろうか。
こくりと頷いた頭に三人は顔を見合わせて、首を傾げて疑問を重ねた。


「あれ、ナマエさ…って魔法使えるん、だ? てっきり剣一筋かと。あっでも治癒魔法使ってたっけ」


頭に過った違和感は、一拍の間をおいて理解できた。世界が違うという事実を、彼らは恐らく知らないのだろう。
アラジンの何か言いたげな双眸が気にかかったけれど、何を考えるにもまずは知識がなかった。魔法というものが何なのか、それすらも知らないのだから。


「…あの」


あの場所へ、帰りたい場所へ、帰るために。


「もし時間があれば、読み書きを教えていただきたいのです」
「読み、書き?」
「…お願い、します」


頭を下げれば戸惑う声が上から降ってきた。辞書があれば調べられるがそれもないならば、一人で言語を学ぶには限界がある。断られれば一人で地道にやっていくしかないけれど。
そんなことを思っていれば、ぱしりと手首を小さな手が掴む。ぐいと勢いよく引っ張られた先を見やれば、アラジンが笑っていた。


「ほら、早くいこうナマエさん!」
「そんなに急いだって本はなくなんねえって」
「でも時間はなくなっちゃうでしょ? 急いでるんだもんね、」


ナマエさん。少年にそう呼ばれるたびに、どくりと心臓が高鳴る。ちらちらと視界の端で眩しい何かが過っていくのに目を細め、有難うございますと頭を下げた。


隅にある四人席のテーブルに紙と羽ペンと、それから語学と魔法に関する書籍を一冊ずつ並べて席につく。モルジアナもどうやら文字はあまり得意ではないようで、二人並んで言葉を教わった。


「そういえば、ナマエ…ってどこから来たんだ?」


基本的な単語の綴りをがりがりとつなげていく。ぴたりと止めた手をそのままに、小首を傾げてそう問いかけたアリババを見つめる。彼にとって、出自を問うことは大した問題ではなくただの話題の提示に過ぎないのだろう。今だけの嘘を吐くことは容易いけれど、それを答えられるほどにこの世界の地名を知らない。シンドリアという国しか、知らない。


「…ザーフィアス」
「ザー、フィアス…? へえ、そんなところがあるのか。どこら辺?」
「――ここから、ずっと遠い場所です。ずっと、」


羽ペンを手の中でくるりと回す。柔らかな毛先が頬をかすめ、無意識に唇を噛んだ。


「……皆さんの生まれはシンドリアですか」
「いや、俺は…バルバッドだよ」
「私はカタルゴ、暗黒大陸です」
「僕たち、チーシャンで出逢ったんだよね」
「ああ、なつかしいよなー」


それからアリババはけらけらと笑いながら、アラジンはこうだった、モルジアナは、と目を細めてどれほどに昔かは分からないがそんな話をしていた。三人は同じ記憶を共有して、同じ出来事を、想いを分かち合っている。――あの任務から帰れば、彼女たちもそんな風になれたはずなのに。思わず伏せた目をなんと思ったのか、アリババは眉尻を下げて言葉を繕った。


「ごめん! 俺らだけこんな話して…」
「……いえ。すこし、羨ましい、だけです」


私にはもう、そんな仲間もいませんから。
彼らがザーフィアスを知らないということは、分かっていたつもりだった。この世界は、自分の世界とは全くの別物なのだ。それでも、はっきりとそう言葉にされ、知らない地名が当たり前のように告げられる。仲間どころか、故郷さえも、なにもかも、なくなってしまったのだ。
彼女自身の所為で気まずくなった空気に気づいてはいたけれど、この重苦しさを晴らせるほど明るい話題もなにももっていない。アラジンが呟いた名前に、どう答えていいのか、まだ分からないのだ。


「――こんなところにいましたか」
「っ、ジャーファルさん!」


コツコツと靴音を鳴らし穏やかな笑顔を浮かべる彼は、ナマエに気づくと一瞬ほんの小さく瞼を上げた。それから再び微笑んで、


「あなたもアリババくんたちと一緒だったんですね。…三人とも、少しいいですか? 煌の船団が間もなく到着するので、それについて話があるのだけど」


そう伝えられると彼らはゆっくりと腰を上げ、「ちょっと時間かかるかもしれないけど戻ってくるから、また後で」と笑った。急に静かになった空間に、あの時取り残された感覚を思い出して手の中の羽ペンを握りしめる。ふいに眩暈が襲ってきて羊皮紙に額を押し付けた。
帰りたい場所に、帰るのだ。あの人たちの許へ、帰るのだ。
握りしめたペンが勝手に、ザーフィアスと綴っていた。


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