知らない単語が出てきたたびに辞書を引く。引いたところでまた知らない単語ばかりで溢れているけれど、ニュアンスでなんとなく文脈を掴んでいく。意味は間違っているかもしれないが、雰囲気が掴めるのであればそれだけで十分だ。

(ルフ…世界、流れ…? 魂、の…なんだろ戻る…還る? 場所?)


つまり、この世界でいうルフというものはあちらでいうエアルと似たようなもので、エアルなしでは魔術が使えないようにルフなしでは魔法は使えない。そしてルフが見えるものとそうでないものがいて、前者が魔法使いと呼ばれている。ルフは世界の流れといっていることから恐らくそこかしこにルフは存在しており、それが見えないということは彼女はこの世界で魔法は使えないということになる。ということは、自力で帰るというのは限りなく零に近い確率で成し得ないと。
彼女からしてみれルフをそのまま魔法として昇華させる方法がある――恐らく細かい制約や媒体になるものなどあるのだろうが、以前ヤムライハが魔法を使っているときには杖以外には見られなかった――ことに驚きと言うよりは納得ができない。基本的な単語すら危ういのだから本を読んでみたところで深く理解などできるはずがなかった。
くるくると巻物型の書物を括る。紐で結びつけて所定の位置へ戻し、吹き抜けから天窓を見上げた。太陽は真上を疾うに過ぎて、空はやや橙がかっている。もしかしたらそれは書物を守るために窓に張られたフィルムか何かの所為かもしれないが、どちらにせよ大分時間は経ったようだ。彼女は座っていた席に戻り、単語を綴っていた書面を裏返す。


(…魔法は一旦置いてまずは今日明日で言語を習得しよう。基本的な単語だけでもわかれば辞書が引ける…文章構成も一文字自体の使い方もわたしの知ってるものとたいして差はないから、きっとすぐ覚えられる…)


口で伝わる点、尚更覚えやすい。アリババたちに時間があるときに教えてもらおうと考えたとき、ふと思った。魔法について聞くのはヤムライハが一番適しているのだろうということは分かる。ただ、彼女たちと話すたびにちらつくのは彼女ではない"ナマエ"で、それはやはりどうしても居心地が悪かった。たいしてアリババたちなら、元のナマエをあまり知らないようでとくに何も考えずにいられそうな気がした。
包帯の巻いた右手を見やる。適当に巻かれたそれをはずして、まだ柔らかな傷口を睨みつけた。


「…ファーストエイド」


淡い光が、睨みつけた先で広がる。瞬きの合間に傷口は消え、痕の一つも残らなかった手で拳を作る。あのとき力が残っていれば、せめてもの小さな傷ならば癒してあげられたのだろうか。


「ナマエさん!」


ぺたぺたと小さな足音が真っ直ぐに彼女に向かってくる。青い三つ編みが、まるで波のように揺れていた。


「一緒に、外に遊びに行こう!」
「…は」


がしりとまたしても腕を掴まれ、有無を言わさぬ眩しい笑顔で黒秤塔から連れ出される。ペンも羊皮紙もそのままに、とにかくぐいぐいと引っ張り出されてしまった。


「あ、の…!」
「ナマエさん、この国もね、きれいなんだよ。王宮からだけじゃあ全然、遠くまで見れないんだ」


王宮のエントランスにアリババとモルジアナは待っていた。


「おっごめんなナマエー! 息抜きにさ、外行こうぜ外!」
「この時間だと夕日がとてもきれいですよ」
「…っえ、は…ゆう、ひ…!?」


つれられるがままに、王宮の大きな門を潜り抜けた。目の前にいたアリババの金髪が、温かな色に染められより一層輝いて見えた。彼はほら、と眼下に広がる家々を指差し、きれいだろと笑った。
緩やかな傾斜に沿い、箱のような白い家が積み重なるように並んでいる。薄橙の照射が白い家に色を与え、タイルに反射して光って見えた。傾斜のその先には険しい崖にわずかに船団の帆がのぞく。目の前を走る広い通りは人にあふれていて、呼子の声がすぐ近くにあるように聞こえた。


「この先ずっと行くと、市場やってて、もう人がすっげーんだぜ。みんな迷子になるなよ」
「迷子になっても、モルさんがすぐ見つけてくれるから大丈夫だよ!」
「ナマエさんの匂いは覚えたので大丈夫です」
「…に、におい…ですか」


ぐ、と両手を胸の前に掲げて握り拳を作るモルジアナに思わず顔が歪む。アラジンにアリババは既に人ごみに分け入ろうとしていて、早く早くと急かしていた。行きましょう、とモルジアナが彼女の手を掴む。タイルを素足で駆ける初めての感触に、じんわりと心臓が熱を帯びた気がした。
大きな籠を持った女性や旅人で溢れている。時々足元を横切る小さな生物に声を上げれば、アリババが笑って「それオラミーっていう動物で、人懐こいから大丈夫」と言うので、未だ足元で鳴くオラミーを恐る恐る両手で挟み上げた。尻尾の中から小さな子供が顔をだし、オラミーは手の中からするりとどこかへ走り去っていった。


「あ、あそこ見てみろ! あの家の隅っこ、パパゴラスだぜ!」
「鳥…?」
「ああ、食うと滅茶苦茶うまいけど、すっげえ攻撃的だから気をつけたほうがいいぞ」
「マスルールさんにはなついているようですけど」
「…懐くのか、あの鳥」


硬質そうな嘴から何とも言えない声をあげて、パパゴラスはすっかり橙に染まった空を旋回する。黒い翼が、夕日に染まり鮮やかに翻る。とんと人ごみに背を押され、流れに乗って再び前に歩き始めた。
通りに沿って並ぶ露店には食べ物や布、武器に宝飾品と様々なものが売られていた。アバレヤリイカの燻製がこの国の名物らしく、陽気な青年がアリババに燻製を片手に話しかけていた。最後は逃げるように通りを駆け抜け、市場の終わりから通りを挟んで突き当りにある手すりに四人でよりかかった。
そこからは、大きな港が一望できた。王宮内では見たことのない服を着た兵士が何人か歩き回っているが、それがジャーファルの言っていた"煌帝国"の船団の一員なのかもしれない。しかしそれもたったの一部で、大きな商船が何隻も港に並び、武官や船乗りの笑い声が聞こえた。


「ナマエ、まだ行く場所はあるからな」


陽が、もうすぐ沈む。少し小走りで進む彼の背中を追いかけて、港をぐるりと回って船の少ない海岸に出る。たった数段の階段を降りれば、砂浜があって、その先に海がある。三人が階段を降りていくのを見つめて、彼女は立ち竦んだ。


「…ナマエ?」
「……」


ふるふると頭を横に振る。アリババのつま先が、黄金に輝く砂に埋もれる。アラジンの素足が、砂の色に馴染む。モルジアナの髪色が、ナマエに記憶を突きつける。


「…っい、や」


一歩も、動けない。動きたく、ない。怖い。


「…ナマエ」


モルジアナの声が、砂浜に落ちる。二の腕を握りしめる彼女は小刻みに震え、足元を映していた。


「ナマエ」


小さく、それなのにとても大きな手が、手首を捉える。


「大丈夫、大丈夫です。ここには、私たちとあなたしかいません」


柔らかく、引っ張る。一段一段と、連れ出してくれる。モルジアナの頬が染まっていくのを、見つめていたような、ちかちかとする砂浜から目を逸らしていたような。さくり、と右のつま先が砂を踏む。また、動けない。


「…モルジアナ、さん」
「モルジアナでいいです」


右足が砂に絡まる。掴まれた手首を返して、握り返す。


「…モル、ジアナ」


鼻の奥がつんとして、目が沁みた。はい、と答える彼女の声が耳元で弾ける。


「…有難う、ございます」


左足が階段を蹴る。爪の先に、砂粒が詰まった。
――この砂に絡めとられ転んだ時は、ダミュロン副官が手を貸してくれた。あの砂丘に、仲間が埋まっている。助けに、行かないといけないのに。
一歩、一歩とゆっくりと歩くナマエの歩幅に合わせて、彼女は波に近づいていく。そのたびに、歩くたびに視界が涙で霞んでしまうから、モルジアナの手を頼りに進んでいった。ここできっと、立ち止まってはいけないのだろう。分かってはいるけれど、顔を上げることはできなかった。


「…ナマエ、見えるか?」


アリババが、何かを指している。官服の袖で必死に涙を拭って、拭って、漸く顔を上げれば、大きくて丸い橙とも黄色とも赤とも、あるいは白とも言い難い太陽が僅かに頭を出して、沈んでいった。穏やかな波に飲み込まれるように眩しいそれはなくなってしまったけれど、あがくように鮮やかな光を失わない空は、どこまでも遠く綺麗だった。


「つぎはちゃんと夕日見に来ような」


ぼろぼろと目尻から零れては砂に吸い込まれていく雫を手の甲で追い払いながら、ぎこちなく頷いた。
次は、一人でも立って歩けるようになるから。泣かないように、頑張るから。今だけは、今だけは、どうか。その鮮やかさに目も当てられない自分を、頭の隅に暗い砂丘ばかりを思い浮かべる自分を、握りしめた手を離せないでいる自分を、どうか。
有難うと呟いた涙声はここまで届くほどの市場の声にさえ掻き消されてしまうほどに小さいものだったけれど、全部、伝わっていればいい。温かな手のひらを、もう一度ぎゅうと握りしめた。砂浜は、思っていたよりも温かく、砂漠の砂よりは痛かった。


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