柔らかな枕に鼻を押し付ける。呼吸が詰まるたびに胸が苦しさを訴えるのは、酸素を求めているからだけではない。
朝焼けが壁の白を染めた。徐に触れた壁はどこまでも冷たいようで、仄かに温かった。
ぺたりぺたりと素足が大理石の床を踏みしめる。毎日ベッドの脇に置き去りにするつま先の重いブーツ以外に、履く物はなかった。慣れればその必要もないので、すっかり素足で動き回る癖がついていた。
右へ左へと彷徨わせる視界の先に赤と青と黄色の目印を探していた。両手に抱えるように持つのは、巻物と呼ぶにはあまりに薄い丸めた紙と蓋付きのインク瓶に縒れた羽ペンであり、目的はここ最近一つしかない。
心当たり――といっても探す範囲は限られている――をふらふらと歩き回り、中庭を囲む廊下を半週ほどしたところで探し人たちの姿が目に入った。見知らぬ二人が、しかもシンドリアでは見たことのないような出で立ちである男女二人が、彼らと話をしている。険悪か友好かは彼女と彼らとの間に距離がありすぎるためにはかりかねるが、少なくとも和気あいあいと談笑をしているという雰囲気ではないようだ。
ぎゅうとインク瓶を握り締める。しばらく彼らをぼうっと眺め、それから踵を返した。
――少しだけ、羨ましいと思った。ぺたぺたと音を鳴らす指先を見やる。右手で頬を引き上げてみた。顔の筋肉が固まってしまったかのように、もはや彼女自身の意思ではピクリともしない。抓る頬が悲鳴を上げるので、やんわりと指を離せばにゅうと足元に影が落ちた。
「起きたばかりかな?」
降り落ちる声に勢いよく顔を上げれば、煌びやかな宝飾品で首元を飾るシンドバッドがいた。彼はにこりといかにも人の良さそうな笑みを浮かべて、視線を合わせるように少しだけ腰を屈めている。思わず一歩後ずさった右足に意味はなく、手からこぼれた羽ペンを彼は拾い上げると彼女の足元を凝視した。
「…その包帯は、いつから変えていないんだ? 放置していると傷が膿んでしまうぞ」
シンドバッドの視線を追いかけ、左足に巻きつけた不格好な包帯を映す。確かに、昨日砂浜を歩いたことも相まって薄汚れた色をしていた。
「もう替えたほうがいいだろう、医務室まで案内するよ」
「え――」
大きな手が彼女の手を柔らかく握る。その手の温かさに一瞬反応が遅れ、その間に彼はおいでと腕を引いて歩みだしていた。痛みに慣れてしまったのか傷は疾うに塞がっているのか、それとも痛覚を置いてきてしまったのか。彼に言われてようやく、足の裏の切り傷を思い出した。割れた花瓶を踏みつけた傷は、痛まなかった。
異様な白さに囲まれ、シンドバッドが手近な四角ばった椅子に腰掛けるよう促す。辺りを見回す彼は入れ違いかと呟いて、ナマエを見やった。
「恐らくそう遠くに行ってないだろう。治療師を探してくるから、少し待っていてくれ」
「――っ大丈夫です、自分で治しますから…」
抱えていた荷物をテーブルに置き、手のひらを見つめた。それからその手を足先に向け、ぽつりと呟く。キィと甲高い音が左耳を微かに掠めると、柔らかな光が傷口に集まるのを感じた。適当に片結びをした包帯をぐしゃりと外せば、気のせいだったのだと思わせるように、足裏から甲までまっさらな皮膚が繋がっている。ふいに、甲に浮き出る骨をなぞる様にシンドバッドが指先で触れた。魔法は、と半端に区切れた言葉が医務室に響いた。
「どの程度の傷を癒せるんだ?」
「…急繕いで、理論を詰め込んだだけなので、ちょっとした傷以外は…」
「魔法を何度もかければ致命傷も癒せるんじゃないのか?」
「……私のは効率が悪いので、力の消費が激しいんです。時間を置かないとすぐには使えません」
――隊には何人も治癒術師がいたので、本当に緊急事態に備えての付け焼刃にすぎなかったのだ。それが、隊が全滅してしまうとは思いもよらなかった。
下唇を噛む。何の役にも立てないと笑うには、もう何もかも遅い。
シンドバッドはしばらく何かを考えるように目線を逸らし、それから片膝をついて俯くナマエの顔を見上げた。
「昨日、アリババくんたちと城の外に遊びに行ったそうだね?」
金の瞳がまっすぐに彼女を射抜く。力強い双眸に内心を見透かされているような気がしてならず、無意識に視線を背けた。彼の眩しい銀の腕輪の装飾を目でたどりながら、はいと唇を震わせる。シンドバッドはなにが面白いのか口角を上げて笑い、どうだったと目を細めて問いかけた。
目蓋をうっすらと閉じて記憶をたどる。呼子の声が、騒がしい声が耳を通り抜ける。
――懐かしいと、思うことが怖かった。
ザーフィアスの下町を巡察するときや魔物を狩りその獲物を住民に譲り渡すときに似たその騒がしさも、騎士団本部のあの部屋から見た夕日も、隊員が埋もれる砂粒も、炭化した艦隊が横倒しになる海も。昨日のことのように蘇る。遠い日のことのように記憶に沈む。
ナマエと呼ぶ声がした。赤い髪が風に揺れる。夕日に似て劣らない赤々とした瞳が柔らかに細められる。閉じていた瞼が、一気に熱を帯びたのを感じた。
「……たい」
押さえ付けていた声が叫び散らす。太ももの上で握り締めた両手に熱い涙がぽたぽたと落ちる。あの時のキャナリが諌めた声を聞いた。
「…みんなのところに、帰りたい…っ」
違うと思った。生きる世界は、ここではないのだと。一度思ってしまえば違和感は尚更拭えなくなった。少しでも痛みを感じなければ、まるで生きた心地さえないような。知らない異国語を目で追うたびに、湧き上がるのは紛れもない恐怖なのだから。
ぽんと大きな手が頭を撫でる。後ろに結い上げる髪の流れに沿って指の腹がすべる。ヒスームの手は、もっとぎこちなかったなと頭の奥で声が弾けた。
* * *
書簡が散らばる机の上を眺めていた。つい先ほど女官が灯りを灯したばかりのランプを目に映しながら、慣れ親しんだ国の文字を追う。見回り――というのか見張りというのか、部屋を訪ねてきたジャーファルは珍しく口を尖らすこともなく必要な書類を小脇に抱え、酷く疲れた目でシンドバッドの手元を見ていた。
「…どうした、ジャーファル」
いえ、なんでもと彼は頭を一度横に振ると、紙を留める紐を解き、中身の確認をさらさらとし始めた。青白い顔が橙の炎に照らされ、凹凸の影をはっきりとさせる。頬を照らす光と影が、丁度目の下で分かれまるで涙の跡のように筋を作った。
――帰りたいと、少女は言った。それは至極当然の反応であり言葉であるはずなのに、どうして"彼女"はそう言わなかったのだろう。帰れないと、諦めているようにさえ思えた。確かに前例のない奇妙で不可解な現象、現状ではあるが、だからといってああも素直に手放せるものであるだろうか。
「…人をそんなにジロジロと見ないでください」
「ん、ああ、すまない。相変わらず顔が青いなと思ってな…」
「誰のせいだ、誰の」
ぎらりと鋭い双眸で睨みつけられ、シンドバッドは乾いた笑いを漏らす他なかった。
刹那、こちらに向かってなにやら忙しない足音が聞こえてくるのがわかった。ざわりと粘着質な空気が肌を撫でる。扉が勢いよく開かれるより先に、シンドバッドは椅子から腰を上げた。
「王様!」
「ッヤムライハじゃないか! なにがあった?」
エメラルドの髪が跳ねる肩に合わせて揺れる。弾む息の合間で、彼女はかすれた声で叫んだ。
「け、っ結界にひびが…!」
「! …ジャーファル、八人将を集めてくれ」
はい、と短く返事をすると彼は素早く身を翻し、開け放たれたままの扉の向こうの影に消えた。
嫌な空気だ。川底に沈澱する淀みのように、息がしづらい。この感覚は、僅かではあるがバルバッドでのそれに似ている。それはこの身が黒いものに慣れてしまっているからなのか、それともまだもう半分のおかげでわかるものなのか定かではないが、恐らくシンドバッドには見えないものが、ヤムライハには見えていることには違いない。
「王様、」
「ヤムライハは先に皆で空から探っていてくれ。後からマスルールと他の武官たちを合流させよう」
頭を下げて急ぎ部屋を出ていった彼女の背を見つめながら、奥にいた女官に声をかける。
「…すまないがアリババ君たちや使節団、それに彼女の様子を見てきてもらえないか」
「仰せのままに」
焦げ茶の髪が暗闇で揺れる。暗さに潜むような褐色の肌の上で細められた双眸は、何を訴えるでもなく無言のまま去っていった。
ふうと吐いた無色の息を視界に映し、それから急ぎ足で部屋を後にした。
――嫌な、空気だ。
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