おそらく今頃中庭を走り回っているであろう二人の少年を思い浮かべながら、彼はペン先を黒々としたインク瓶に浸す。
目の前の貿易に関する書類に一通り目を通しながらも、頭の中ではそれとは別の事を考えていた。それは彼の主でありこの国の王であるシンドバッドが帰国してからというものずっとで、その航海の途中に出くわしたなどという得体の知れない彼女が未だ目を覚まさない所為である。
彼女を拾ってから早くも九日が過ぎようとしていて、今朝方侍女の報告によれば熱は下がりはしたがまだ魘されているとのことだった。
彼女を医師に診せたところ、背骨が折れていたというのだから、余程高いところから落ちたのだろう。勿論、彼女が落ちた海域にそれらしい類の建築物などあろうはずもないのだが。
もしかしたら敵対行動をとる集団の一味かもしれないと考えるのであれば、身元の一切が不明のまま死なせるには惜しい。死なない程度の弱い治癒魔法を掛けてから、あとは自己回復を待つのみとしていた。
彼は一旦手を止めてペンを置き、細く長い溜息を吐いた。
兎にも角にも、件の彼女が目を覚まさなければ意味がない。彼女の身なりから出自を割り出せるかと思っていたが、それに該当するような国も見つからず、今のところ性別と大体の年齢以外何も情報は得られていなかった。彼女が本当に刺客であるならばその依頼先を割らなければならなくなり、仮にそうでなかったとしてもあんな何もない海から現れた理由を知っておきたかった。それが迷宮攻略者ゆえのものであるならば、依然とシンドリア、引いてはこの世界の情勢を揺るがす一大事だ。
そんなことをぐるぐると考えながら、後は王の認印さえ捺されれば片の付く書類をまとめ、彼は執務室を後にした。

彼女の部屋は常に八人将の一人であるマスルールが見張りをしている。彼女が魔法を使っていたということと腰に携えられていた剣から、それなりに腕に覚えのある者かもしれないという可能性を考えての事ではあるが、実際細かな仕事が得意ではない彼にとって、丁度いい役割だろうと思ったからでもある。マスルールの種族性を考えると、それも適当だろう。
王宮の奥のほうに置かれた、密偵を一時捕らえておくための場所として武器庫を改築してできた部屋に彼女はいる。不侵略不可侵略を謳うシンドリアとしてあまり荒々しいことはしたくないそうで、これも殆ど彼の独断によるところも大きい。
カツンと恐ろしいほど静まるかえるだだっ広い廊下に足音を響かせながら、目的の部屋の前で立ち止まった。
重たげな扉を見上げ、息を吸う。マスルール、と扉に向かって声をかければ返事はなく、代わりにギィと見た目相応の音を立てて開かれた。
明り取り用の小さな窓から漏れる日差しが薄暗い部屋を気持ちばかりに明るく映す。四畳程の小部屋ではあるが、彼女が生死すらも一時は危うい程の状況であったために掃除がされていつもよりは綺麗で、家具も少ないので狭さは特に感じない。


「っぁ……ぅ゛」


時折痛みに魘される声は、酷く掠れていた。すん、と瞬間鼻を衝いた血の匂いに眉を顰めて、隣のマスルールを見上げる。


「マスルールは大丈夫なんですか」


私より鼻がいいでしょう。そう付け足した言葉にマスルールは変わらずの無表情で「大丈夫っす」と短く答えた。特にその質問に意味があったわけではなかったので、そうですかとだけ返して簡素なベッドに歩み寄る。彼女の首元にずり落ちていたタオルを掴んだ拍子に触れた頬は、やはり未だ熱かった。水の張った桶に晒してからもう一度額に乗せてやれば、彼女の睫毛が僅かに上下した。


「ん……」


ゆっくりと開かれた瞼の奥で、焦点の合わない瞳がぼんやりと彼を捉える。仄かに紅潮した頬に乗っている瞳は、深く暗い海の色をしていた。


- 33 -
BACK TOP