其処は深海のような場所だった。暗く深く、とても冷たい。伸し掛る水圧も、水中の所為でできない呼吸も、感じるもの全てが苦しい。
苦しくて苦しくて、もがいて伸ばした右手は何度もつかめない水を握ってはすり抜けていった。あがいても抜け出せない苦しみはまるで地獄のようで、いっそもう、と思うけれどもそれがどうしてか死ぬことなどできなかった。
がは、と二酸化炭素を吐き出せば、それは大きな気泡となって上へ上へと上っていく。それを遠く見つめながら、深く深くに沈んでいった。
刹那何かが足に絡みつく気持ちの悪い感覚に身震いする。体を折り曲げて足元を見やれば、いつかの赤い目をした魔物が足元で揺らめいていた。彼女の何倍もの大きさのそれは、時折大きなあぶくを出して旋回する。それが大きな口を開けて横っ腹に噛み付いてきた瞬間、深海よりも冷たい何かが頬に触れて、彼女は思い出した。



深い海の底から目を覚ましたとき、そこは深海よりも光のあふれる地上だった。お世辞にも綺麗とは言い難い部屋は自分の血の所為なのかそれで充満している。気づけば自然と呼吸ができていることに、ようやくこれで苦しくはないのだと安堵した。
ぼんやりとなんとなく見渡した視線の先で、異様な白を見つける。緑色のクーフィーヤから見える白い髪が、というよりは、疲労からかあまり血色の良いとは言えない肌が、より彼――彼女?――の印象を白に近づけさせていた。


「……、」


ありがとうございます。
そう言葉を吐こうとして、つぐむ。あまりに声が酷く嗄れて老婆のようで、これが自身の声なのか疑うほどだった。声が出ないというわけではなく、何度か咽せればひとまず声らしきものは出た。
すみません、ともう一度少ない言葉を選べば、彼は表情の一つさえ変えなかった。


「ようやく目を覚ましましたか。あなたが眠ってから九日ほど経ちましたよ」


起き上がろうと首を持ち上げて、固まった。一週間近くも、とそれまた声には出さずに目を見張る事で意思疎通を図った。まだ起き上がらないほうがいいと力の入った肩を押されてぽすんと布団に沈む。
瞬間、ベッドのスプリングとは異なる、身体の中で何かが軋みを上げたかと思えば、息の詰まるような痛みが走り抜けた。
呼吸を詰めて顔を顰めれば彼は、でしょうね、と落ちた布を水に晒して再び額に乗せながら呆れるような声音で言った。
――口振からして、目を覚ましたことに安堵するような優しい状況ではないようだ。いつもこんな風に険悪から始まることばかりだな、と思わず唇を歪めそうになったのは、まるでまだ夢の続きを見ているようだからだろう。少なくともこの痛みは紛れもない現実であるのだから、この認識のずれはきっと長く眠っていたせいなのだと無意識に言い聞かせていた。
目の前の彼は声からして男性だろう。彼の服装も、それから扉近くに立つ男性も、見覚えがない格好をしている。一通りすべての地域を仲間と共に渡り歩いてきた彼女にとって、知らない文化などあるものだろうか。必死に動かしていた思考が詰まる。
渇いた喉に生唾を流しそれから空咳を一つして、そばかすの散った白い彼に話しかけた。


「助けて、くださって……有難う、ございました」


ザウデで斬られたあの瞬間、明確な死を悟った。海に落ち、拾われ、それでもこうして生きていることを考えれば、何かしらの治療を施されている他ならない。
あの海域周辺に大きな都市はない。湿った空気感や雰囲気的に、ノードポリカに近い場所だろうか。闘技場都市であれば、治癒魔術の使い手も多いかもしれない。
頭を下げられない代わりに目で礼をすれば、彼はその双眸を見開いて驚いていた。
それからゆっくりとその顔面に愛想笑いを浮かべて「いいえ」と返す。目が笑っていないのは、少なからず自分が疑われているからなのだと理解できた。それならばこの狭くまるで簡易な檻のような重苦しい部屋にも納得できる。


「……あの、ここは、……?」


傷がずきりと痛む。
体動に合わせて疼くせいで腕一つ動かすことも億劫だった。


「ここはシンドリア王国です。あの時バルバットよりもシンドリアに近かったので、そのままお連れしました」
「――……え?」
「……どうか、しましたか」


どこですかそれは。
思わず突いて出そうになる声を呑み込んで、唇を引き結んだ。
――知らない地名だ。しかもシンドリア"王国"などとあり得るわけがない。どの大陸も帝国が統一管理しているのだ。新しく国ができるはずがない。
嫌な汗が背中をじっとりと湿らせる。
知らない都市国家。見覚えのない服装。必要以上に向けられる警戒心。
彼は目を細めて、ナマエを見ていた。


「……あの、窓の外を、見ても?」
「構いませんが……動くのもお辛いのでは」


大丈夫ですから、とただの一言もひどく重々しい。
左肘をつき、細く息を吐きながら上体を起き上がらせる。ばきばきと体の中で不協和音が響く上に、叫びたくなるほどの激痛が犇めいて何度も歯を食いしばった。そうまでしてでも、見なくてはいけない。この窓の外にある景色を。
ベッドに座ったままでも見える明り取り用の小さく横に細長く伸びる窓は彼女の手のひら程の幅しかなく、少し背伸びをしただけで空が見えた。


「っな、」


遠くどこまでも青く澄んだ空には、白い雲と眩しいばかりの太陽が浮かんでいた。そこには街を守るはずの結界もなければ、あの日現れた世界の脅威もすべて消え去っていたのだ。
――まだ、矢張り夢でも見ているのかもしれない。でなければこれはなんだというのだ。ザウデでアレクセイを庇い、聖核の崩落に巻き込まれ、そして空から海へ急転直下で叩きつけられ、そうして、目覚めた場所は全くの非なる世界だとでも?
馬鹿げている。だというのに、受けた傷があまりに痛い。
――夢であったら、もう一度眠りにでもつけば覚めるだろうか。目が覚めたときには目の前でみんなが笑っておはよう、と言ってくれるかもしれない。随分長い夢を見ていたなってユーリはからかってくるだろうから、そうしたら夢の話をして、馬鹿みたいだよねと笑うのだ。
ああそれか、この寝ていた九日間のあいだにあの世界の脅威である"星喰み"も消えて人々は魔導器(ブラスティア)もすべて捨て、殿下が新しい国家体制を築き上げたのかもしれない。大陸毎の自治体性が認められれば、こんな王国だって、もしかしたら。

次に継ぐ言葉も忘れて頭の中でもしかしたらなどという希望論が散らかっていくが、それを冷めた頭で否定をしている。もしこの九日間の間に世界が激変していたとすれば、それはそれで魔導器を失って僅か一週間ほどで安定しすぎているこの都市も説明がつくはずもなかった。


「――大丈夫ですか?」


疑いも嘘もなく、その声は真剣だった。それほど今の彼女の様子が傍から見ても異常なのであろう。
だからといって、なんと答えれば良いのだろうか。なんと答えたら、ここではないあの場所に帰れるのだろうか。
膝の上でぎゅと両手を握り、乾いた唇で笑みを浮かべる。そうでもしないと、今にも泣き叫んでしまいそうな気がした。


「……すみません、……わから、なくて」
「分からない?」
「――思い出せない、のです」


きっとそれは、無意識のうちの自己防衛。
背後で彼の表情も分からないがおそらくは呆れや驚きの顔をしていたのだろう、少しの間の後に「ええ?」と聞き返した。
痛みでか、困惑にか、震える拳を握りしめて、首を捻り少しばかり振り返る。
視界の端で、じとりとした目でこちらを見ていた彼が映った。


「わたしの名はナマエ……と、言います。それぐらいしか、いまは――」
「はあ……記憶喪失……ですか」


彼は生返事をしてから暫しの思案を挟み、ちらりと扉付近の男性に視線を移した。


「――分かりました。それでは、何か思い出せそうでしたら、あそこにいる者に声でもかけてください。……あなたの国までお送りいたしましょう。ああ、それと私はジャーファル、彼はマスルールと申します」
「……宜しく、お願いします」
「……うす」


人の良さそうな笑みを浮かべたまま、彼、ジャーファルは席を立つ。


「まだ病み上がりでお辛いでしょう、水でも持ってこさせます。それまでゆっくりと休んでいてください」
「いえ……ご迷惑をおかけします……」


それでは、とひらりと服を翻し、マスルールと二、三言会話をすると左に曲がって去っていった。マスルールはナマエを一瞥すると大して興味もないようで扉の向こうへと早々と出て行った。
ぱたりと全てに拒絶されたような扉は固く重そうで、彼女は小さく息を吐いた。


「記憶、喪失……か」


ある意味間違いでもないのかもしれない。
知らない国に知らない人々。知らない世界。
まるで生まれたての赤子と同じようなものだ。
ずぐずぐと身体の何処ともわからない傷が痛み、息を吸うたびに悲鳴を上げる。
――一体何のために、世界を渡り生きながらえてしまったのだろうか。
ゆっくりと硬い枕に落ち着けば、ふわりと海の香りがした。
左耳に触れてみる。そこには相変わらずティアドロップ型の魔導器がぶらさがっていて、心底息を吐いた。これまで取られてしまっては、もうなす術がない。


「……聖なる活力、ここへ」


ファーストエイド。
掲げた右手から淡い光が溢れ、ふっと陣が浮かんで消える。
明らかな外傷を癒せるほどの力はそもそもない。ただ少しだけ、この痛みが和らげばもうそれでいい。
先ほどより楽になった呼吸に、長く細く息を吐いた。
細い明り取りの向こう側を見やれば、少しだけ傾いた太陽が暗い室内を仄かに橙に染め上げていた。


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