「ナマエ、ね」
彼女は少しも視線をそらさずに、大層な椅子から腰を上げる。キルタンサスの花びらがふわりと品良く揺れた。
「ようこそ、我が隊へ」
差し出された手は、紛れもなく己自身に向けられている。差別も過剰な身分意識も偏見もなく、見せられた手のひらを食い入るように見つめていた。彼女は、ただ微笑むばかりで。彼女の隣に立っていた男はそんな少女を見つめて苦笑した。
「最年少だろうがなんだろうが、この人は容赦ねえぜ。覚悟しといた方が身の為だ」
「あら、物騒な言い方」
朝とも昼ともつかない柔らかくそれでいて熱を帯びた陽光が、隊服の隙間から容赦なく肌を刺している。眩しいと、感じたのはどちらであっただろうか。伸ばした右手がわずかに震えていたのを誤魔化すように、彼女の手を強く握り締めた。
「宜しく、お願いします」
あの時の手のぬくもりを未だに覚えている。穏やかな微笑みも、交わされる言葉も。穏やかな時は、気づけば緩やかに酸化していた。花が枯れるように、降り積もる埃のように、遠くなる。
――今も、誰も訪れなくなったあの部屋の机の上で、赤いキルタンサスの花は咲き続けているのだろうか。
夢のような現実から意識が引きづられる感覚を覚えるたびに、足掻くように瞼はしばらく動かさない。枕のじんわりと冷えた感触が頬を濡らし、そこでようやく目を開ける。吸い込んだ空気の鋭さは、もう思い出さなければわからなくなっていた。そうして、十一度目の長い夜が明けるのだ。
「……ナマエ?」
布団を剥いで身を起こせば、背を向けていた扉の方から名前を呼ばれ勢いよく振り向いた。魔法とやらの効果が落ちたのかすっかり元の青みがかった色に戻った髪がいきおい顔をはたくも、見開いた両目は彼女の姿を捉えてはなさなかった。エメラルドの髪が朝日を浴びて海面のような反射をみせる。彼女は手に持っていた花瓶を一瞬落としそうになりながらも柔らかな笑みを浮かべて「おはよう」といった。花瓶には、薄紅色の花が控えめに生けてあった。
「ヤ、ムライハ…さん」
「…昨夜から、あまり調子が良くないって聞いたから。勝手に入ってごめんなさい。体はどう?」
シンドバッドに会った後、彼が原因ではないが酷く眩暈がしたのだ。早々に床に就いたからといってやる事もなかったので、ただそのまま眠ってしまっただけである。大丈夫です、と寝起き特有のかすれた声が喉を通った。良かったわとよくよく見ればそれなりに濃い隈ができている目を細めながら、ヤムライハは息を吐いた。
「アリババくんたちが、これから少しの間だけ王宮を出るの。お昼前にはここを出発する予定よ」
花瓶をチェストに置き、部屋を出ようとノブに手をかけたところで彼女は振り返りそう告げる。ああそうなのかと頭で理解するより先に、唇は無意識に疑問を口にしていた。
「どのくらい…どこへ、?」
「――どのくらいかは定かではないけど、シンドリア近海の島に行くの」
ヤムライハの言葉が耳を通り抜ける。視線はテーブルに置かれた羊皮紙に向けられた。彼女は午前中はきっと中庭の方にいると思うわ、と残してノブをひねる。黒のトンガリ帽子が扉に半分ほど消えたところで、あの、と舌先で言葉が転がった。
ベッドから降りれば少し冷たい石が足の裏をじんわりと刺激する。ぺたりぺたりと、六歩分の足音を鳴らせた先で、ヤムライハと向かい合った。見上げた視線の先で、彼女の青い瞳と視線が混じる。すぐに逸らしてしまったけれど、彼女の大きな瞳はとても綺麗な色をしていた。
「…疲労に効くかは、わかりませんが…」
女性らしい、それでいて杖を握るせいで固くなった彼女の手のひらを包む。ファーストエイドと詠唱することで眩しい光がヤムライハの体を抜けていく。本来ならば怪我の応急処置を目的とした魔術であるので疲れに効くかは怪しいところではあるが、彼女の顔を見れば何もしないわけにはいかないように思えた。
効果はあっただろうか、と恐る恐る見上げれば、彼女は何とも言えない表情をしていた。
「…あり、がとう、ナマエ。なんだか頭がすっきりしたわ」
ぎゅうと握り返された手に息が詰まる。ありがとうともう一度こぼれた言葉にふるふると頭を横に振ることしかできず、彼女は朝議があるからと手を振って部屋を出ていった。
閉められた扉を見つめる。目元に手をやれば、触れた指先が湿っていたように思えた。
ひゅうと珍しく冷たい風が肌をなでる。振り返れば、ゆらりと所在なさげに薄紅の花が揺れていた。名も知らない、あの赤い花よりも薄ぼけた花である。近くに歩み寄ればなおさらその色は朧げで、曲線を描く花弁を指でなぞった。
こんな花ではない。あの赤は、ぞっとするほど鮮やかで、見蕩れるほど艶やかで――。
花瓶から一輪を抜き取る。そのまま背中からベッドに身を沈め、しなやかな茎をつまんで雄しべを鼻に近づけた。花の匂いなど、わからなかった。
柔らかな芝生を踏み締める。指の間をくすぐるような葉の感覚のせいで、彼女の歩みは早かった。
白さが眩しい壁の背景に目を細め、不自然に屯する集団を捉える。今朝方のヤムライハの言葉が頭をかすめた。ただ一言、告げに来ただけである。無意識のうちに閉じ込めた日常の変化への恐れが、彼女の足取りを重くする。あの切り立った崖の、あの青の向こうへ出ていこうとする彼らに募る感情は、騎士団本部から遠方へ各隊を見送るそれと似ている。――否。少なくとも、似ていないという認識のままでいたい。
「…あ! ナマエさんだー!」
おーい、と少し離れた場所でアラジンが手を大きく振り上げた。丁度中庭を後にしようと動き始めていた頃のようで、見慣れない少年少女を含めた四人はアラジンの声に振り返った。――あの青く長い髪に埋もれるように、第三の目でもくっついているのだろうか。
ナマエの手に何もないことからいつもの目的ではないとだけはわかったようで、アリババが小首をかしげながらも楽しそうな声音でどうしたんだと笑った。
「ヤムライハさんに、皆さんが王宮を出ると聞いたので」
「そんな大げさな。俺達迷宮に行ってくるんだ」
迷宮というものがなんなのかは分からなかったが、アリババの声が普段よりも弾んでいたので恐らくそういうものなのだろう。我知らず唇から息を吐いた。足の指先に伝わっていた緊張が解れていく。
「アリババ殿、」
金髪の影から現れた彼の顔は左半分を火傷の痕で覆われて、その藍色の髪を結わえる髪飾りから伸びる、細く白い二本の帯は緩やかな風に靡いていた。この国で見た誰とも雰囲気の違う彼は、隣に並ぶ赤い髪の少女と同じ土地の生まれなのだろう。彼はアリババと目を合わせると、わずかに口元に弧を描いて左の拳を右の手で包み込むと小さく頭を下げた。
「初めまして、練白龍と申します」
レンハクリュウ、と思わずオウム返ししてしまえば、彼は少し不思議そうにナマエを見た。むしろ彼のほうが不思議な名前をしている。レンが名なのかハクリュウが名なのか。この二語の間に空間があったので、恐らく切る場所は間違っていないはずである。唇がまごついたのがわかった彼は、目を細めて白龍でいいですよと言った。生まれる土地が違うと、名前も違うようだ。
――ふいに大きな影が足元に落ちた。巻き上げるような風に空を見上げれば、そこには大きな両翼を広げた鳥の姿があった。
刹那、呼吸が詰まる。肺が押し潰されたかのように、吸い込んだ酸素はそのまま口から吐き出された。つう、と背筋に脂汗がにじむ。感覚をなくした手を握ったのは、モルジアナだった。
「みんな、もうそろそろ出発の時間だよ!」
翼の付け根あたりから顔を出した人物は逆光のせいでよくは見えなかったが、聞き覚えのある声は間違いなくピスティである。ひゅ、と喉が音を鳴らしたのを最後に、酸素が肺を膨らませる。相変わらず、心臓は早鐘のように脈打っていた。
「あれ、ナマエ"ちゃん"もいたんだね。お見送り?」
こくりと無言で頷けば、彼女の外見年齢に似合わぬ笑みを見た。少しだけ居心地の悪いものは感じたが、嫌な感じはしない。
「港まで乗せてってあげたいところだけど重量オーバーだから先に行ってるよー」
王宮から港まで、市場を抜けるのが最短のルートであるが、昼食時を間近に控えたこの時分ではむしろ最長コースである。さくさく遠回りするしかねえかと笑ったアリババに、モルジアナが真顔で両手を胸の前に掲げた。彼女はとても力持ちなのだと、以前話には聞いていたが自分よりも大きい、しかも男性を担いでいくなど非現実的な方法だ。勿論頭を横に振った彼は、それでもナマエが思うような理由からではないらしい。この世界は、彼女が思う以上にとても不思議だ。――彼ら限定なのかもしれないが。
「それじゃあ、行ってくるよ」
赤髪の彼女――紅玉はついて行かないようで、四人と対面する形でナマエの隣でひらりと手を振ってみせた。迷宮というところは、そんなにも軽々しい場所なのだろうか。今ひとつ実態を掴みかねながらも、恐らくこの胸の内でくすぶるものは程度の大小によるものではないのだろう。
「…どうぞ、気を、付けて」
ピスティの顔が光のせいか、一瞬歪んで見えた。
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