天窓のドームから遮光フィルムを挟んだ薄ぼんやりとした明かりが手元を照らす。指先で追う文字の羅列を彼女の声に合わせて解読するには世界の壁は分厚かった。


「――そうねぇ、迷宮っていうのは……」


彼女、紅玉は細い指で書物の背をなぞりながら、時折ナマエの手元を見下ろしては表情を横目見た。
青白い顔である。左耳に下がる赤いピアスばかりが彩を放ち、目の下にできた暗い影も、乾いた唇も。それらと相反して羊皮紙を撫でる手の確かさがもどかしく、可笑しかった。ひょいと彼女の手中から教書を奪い、手首を握り手の平を返した。とくりと心臓が笑ったのは、紛れもない証拠である。


「ちょっとついてきなさい」
「は…え、あ」


紅玉は、彼女が何者かは知らない。彼女もまた、紅玉がどんな立場であるかを知らない。ナマエの敬語の節々に感じるものは謙遜でも畏怖でもなく、ただの距離である。握り締める指先を押し返す筋肉の柔らかさは、ただの深窓の令嬢という希薄さとは程遠い。
黒秤塔の大扉を抜け影の短い廊下を幾人もの官吏に見送られながら通り過ぎた。途中で息を上げる――それに少し怒っているらしい――夏黄文を見つけ、傍に控えるよう告げるまでもなくひしと後方に並ぶと、これでもかと訝しげにナマエを見つめたあと「姫君」と口を滑らしそうになったので思わず唇に指を当てて顔を近づけた。


「しっ! 折角思い切りやれそうな相手が見つかったのよ、ばらさないでよぉ!」
「ばらっ!? …また何をする気ですか…しかもこの子供、何やら腫れ物のような扱いを受けているようでありますし姫様の御身にもしものことがあれば…」
「全く心配性ねえ夏黄文はぁ! 少し体を動かすだけじゃない」


他国、しかもこのシンドリアは広々としていて紅玉には窮屈すぎた。広さに反して足元の狭さを見やれば笑えるものがある。勿論それは不満ではない。当たり前だ。
夏黄文はもう一度顔面を歪めたあとナマエを見る。それに釣られて紅玉も彼女を見れば、その双眸は柱の向こうの空を見上げていた。繋いでいる――いや、一方的に握っている右手がまるで空気を掴んでいるようだ。


「ねえ、あなた」


ぴたりと止めた足に倣い、彼女の歩みも止まった。虚ろとまではいかないが、無感動さ其のものである。嫌な気分だ。奥底で何十もの和紙に包み込んだ苦渋がにじみ出てくるようだった。


「どうして、あなたはここにいるの?」


戦争から逃れてきたのか、それとも暗殺か、誰かの肉親か。この国にいるものは、この王宮にいるものは、みな何かしらの理由がある。ただの好奇心だ。
無粋だったかしら、と紅玉がぽつりとごちて、それから再び歩みを進めた。この先にある階段を上りきれば銀蠍塔の鍛錬場である。少し後ろを歩く夏黄文の表情など、気付けるはずもなかった。



使い古された刀剣は手入れが行き届いているとは口が裂けても言えないが、武人が握り締めていた分手になじむ感覚が心地いい。
適当な両刃の剣を彼女に差し出せば、後方から重苦しいため息が聞こえてきた。彼の場合はそれが癖である。なにも紅玉のせいではない。と、思っているのは冗談ではある。少しだけよ、と頬をふくらませれば、いつもの諦めたような顔を浮かべ、そして軍配団扇に隠れてもう一度溜息をついていた。普段は大人しいのに全くと心の声が少し漏れているのはご愛嬌ということにしておこう。


「私と手合わせしてもらってもよろしくて?」
「……でき、ません」


青い前髪の奥に潜む両眼蓋は、目を逸らすように固く閉じられている。その返答は彼女にとって予想外だった。断られることは想定していたが、不可能を理由にされるとは思ってもいなかった。きょとんとした目が数度瞬きをしたあと、どうしてと小首を傾げる。ナマエは間違いなく、紅玉と同じ剣を振るう武人である。手を触れば、指の付け根を見ればわかるものだ。
彼女は尚更深く俯いて、ゆっくりと頭を横に振った。剣を握りたくないのだと、ぽつりと呟いた言葉より、後退りしたがる右足が気になった。
――裸足のつま先、酷く冷たい手、心なし痩せる頬、青白い肌。適当に纏められた髪は乾き、髪留めの奇麗さが浮くほどで。滲みだしたそれは、あとは和紙を透けていくだけである。食道を逆流している途中で、気づいた。いや、思い出したという表現のほうが正しいのかもしれない。夏黄文を見つめてしまったのは、思い出したその先にいつもいるのが彼だからである。


「……剣が嫌なら素手でもいいわ」


我知らず張り上げた声は、気づいていた。彼女の後ろにいるものは、きっと。
剣を夏黄文に預けて向き直れば、ナマエは揺らいだ瞳で紅玉を見上げた。深海の底のように、深い青を湛えている。陽光が水中に指す光の筋のように、深い青を切り裂いた。


「武術くらい、心得ているでしょう?」


呆ける彼女など知ったものかと間合いを詰める。近接武術には不向きな服装だが、気づいてしまったものは仕方がない。あとは紅玉が諦めるかナマエが気づくかの二択である。
――嫌な気分だ。それと同時に、そう思える自分に笑った。


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