アリババたちを乗せた船が小さくなり、ピスティを乗せた鳥の翼が太陽の淵に触れた辺りで踵を返した。
波長が合わせづらいことを気にかけていたが、動物の中でも特に鳥との相性はいいので一先ずは安心しても良さそうだ。あとは本当にシンドリアの内外で差が生じるかどうかである。
まるで紙切れ一枚分の壁があるようだと漏らしていた彼女の感覚は、恐らく間違いではないだろう。不穏な空気はルフの呼吸を乱す。ルフの乱れは、いつしか人心の乱れを誘う。幸いシンドリアには諍いを誘発しかねない要素は今のところないが、内側から発せられることが全てではないのだ。
――不穏の象徴であるあの赤い石を砕いてしまえれば魔法痕の一つでも見つかりそうなものだが、どんな衝撃を与えてもすべて吸収してしまっているのだから成す術はなかった。シンドバッドの魔装で唯一ヒビが入った程度だが、あれは吸収できる許容量の限界を一時的に超えたからである。あの八つがすべて連動しており、一つに膨大な魔力を注げば水のようにほかの七つへと循環する。いっそ最大限にまで吸収させてみるのはどうかと提案したのはスパルトスだったか。それにはなにが起こるか検討もつかなかったので魔道士の殆どが首を横に振ったのだ。


「ヤムライハ」


武官数人を連れたシャルルカンが、頼りない垂れ目をわずかに上げて小走りで近づいてきた。彼が名を呼ぶときは、真面目な時である。それは彼が主に似たのか似せているのか、普段から軽々しい態度であるが故の対比だ。
背の高いシャルルカンを見上げ、どうしたのと予想外に重々しい声が出た。


「いや、煌帝国の皇女サマとナマエが銀蠍塔の方に行くのが見えたからよ。もしこのまま王宮に戻るのなら、」
「煌帝国の?」
「おう」


午後にはアリババたちが出かけるからと教えたのはヤムライハである。彼らの中には煌帝国の練白龍がいる。ナマエが会いに行けば必然、その中には紅玉の姿もあるだろう。
互いに事情を知り合っているわけでもないから大丈夫だろうと思っていたが、銀蠍塔ということは鍛錬目的だ。
一拍間をおいて、わかったわと頷いた。何かあってからでは取り返しがつかない。


「一旦王宮に戻るわ。きっと大丈夫だろうとは思うけれど…」
「ああ、任せた」


帯に挟む杖を抜き取り腰掛ければ、そのまま上空から最短距離で王宮へと向かった。


「…ほんと、魔法使いってのは便利なもんだな」
「シャルルカン様」


魔法に興味などないが、それでも歩く疲れを飛び越えていける力は単純にいいものだとは思う。絶対に口になどしないが。





銀蠍塔の最上階。ふわりと品良くなびく紅の髪を見つけて彼女たちから遠く離れた位置に降り立った。何事もないのであれば、気づかれないうちに去ったほうが無難である。
そろりと見やれば、武人と自称する辺りさすがと思う。地面に尻餅をついていたナマエが立ち上がり拳を振るえば、紅玉は半歩身を引いて手のひらでその拳を受け止めて勢いを殺さずに彼女の体を前方に誘導すると、最小の動きの後ナマエはくるりと半回転して再び腰を打ち付けていた。ひらひらと動きづらそうな裾が邪魔をして、足先や手の動きが見えない。武術にはからきしではあるが、滑らかであるというのは知識がなくともわかった。


「如何にも不健康で蒼白な顔をされるのは見ていて不愉快よ」
「ひ、ひめ――」
「それを自覚していながら縮こまるのは卑怯ではなくって?」


上体を起こしたナマエは立ち上がることはせず、俯いたまま微動だにしない。荒々しさとはかけ離れた容姿をしつつも、俗に言う国の皇女様のイメージとは程遠い強かさをもっている。いや、第一印象はシンドバッドに躊躇わず剣を向けたお方、であるからやはり変わった人なのかもしれない。――あの一件については、もはや言及もしないが完全に彼女は被害者である。変わった、と修飾するのは間違いかも知れない。いや、シンドバッドは潔白ではあったけれど。
つい記憶に新しい主の失態――潔白だ――に思考がそれるも、そこはため息一つで流すしかない。


「何故立ち上がらないの? 何故、言い返さないの。ただ私の好奇心に、声を上げれば済むはずよ」


両袖に手を差し、口元にあてがう彼女は鋭い眼差しでナマエを見下ろしていた。どくどくと鼓動が早鐘を打つ。身を乗り出してしまいそうになるたびに、頭の裏側の冷静な声が冷水をかける。
シンドバッドが考えた幼いことである理由を聞いた時から、拭えない不安感がもし晴れるのであれば。それはヤムライハの役目ではなく、紅玉であったということだ。
うつむき続ける彼女になおも紅玉は言葉を重ねた。


「目を閉じるということは背けていることだわ。歩みを止めたところで、進めるはずがないもの」


石畳に転がる砂粒を巻き込みながら、拳が握られる。


「な、にも……ッ」


噛み締めた唇に赤い斑点が散った。八重歯を剥くように、彼女は噛み付かんばかりの勢いで紅玉を睨みあげた。


「何も知らないくせに、……!」


少し前の記憶より高い声が彼女たちとの距離を埋めるように響く。今まで聞いたこともないほど、荒げた声だった。


「砂丘を越えるたび、仲間が死んで……! 小隊長も、ダミュロンさんも、ヒスーム班長も、みんな、みんな、死んで行くのに、わたし一人だけこんな場所でまだ生きてるっ……!! 文字も知らないしここは結界もない…わたしが知っているものはなにひとつなくて、それなのに! それなのに……どうやって生きろって言うの、どうして大丈夫だっていえるのっ……?」


彼女は確かに幼かった。けれど、幼いからこその声が歳を重ねることで消えるというわけではなく、きっと、あの時の彼女も同じように思っていたのだ。


(幼いことである理由、ね……)


どこを見渡しても白く輝くルフしか見えない。怯え惑い、悲しみ怒るルフなど、どこいも。


「……でも、あなたはここにいるじゃない」


紅玉はしゃがみこんで膝に手を置くと、薄桃の大きな瞳を近づける。


「ここはずっといい国だわ。あなたはシンドバッド様やその周りの方の近くにいるというから、今の思いを言ってご覧なさい。きっと、上手な息の仕方を教えてくれるわ。そんな人たちばかりと、私は聞いているもの」


彼女の言葉で、八人将の顔を思い出した。
誰が一番、と不幸や悲劇に優劣はない。そこにあるのは、本人にしかわかりえない深さだ。深みの奥底に抱えるものは、時を経ても解かれはしないけれど、水面への距離は近くなる。伸し掛る水圧と永遠と続く酸欠は、いつまで経とうと治ることはないけれど、水を掻く方法は覚えられる。
皆が同じだとは、思わない。ただ、喘ぐ苦しさなら、恐らく同じだ。


「何もしないで、ただ身の辛さばかりに目を向けていれば、尚更切なくなるだけだわ。きっと、私に武人の道を示してくれた人のように、足元ばかりを見なくても済むような、そんな誰かが、ここにはたくさんいるはずよ」


なんていったって、シンドリアにはシンドバッド様がいらっしゃるんだから。
くすりと笑った声を最後に、ヤムライハは足音を殺してその場を後にした。

この国は眩しい。まるで小さな太陽があちらこちらで羽ばたいているように、視界を光で埋めてしまう。
笑い声が泣き声に埋もれたことは、滅多にない。砂浜に波打つ白波のように、穏やかな時間が過ぎていくのだ。
上空から日に焼けた肌を先頭に置く一団を見つけ、彼の横にふわりと降り立った。


「……どうだった?」
「何にもなかったわ」
「の割には、微妙な顔してっけど」


愛おしい民が手を振るので、それに笑って振り返す。


「役割の問題だわ。私じゃなかったっていうことが、少し淋しいだけよ」
「……なんかよくわかんねえけど、まあ思い過ごしならそれでいいか」


それだけよと告げて再び空へと戻れば、海面の反射に目を奪われた。太陽に触れられそうなほど近い。
偵察も兼ねて王宮の周りを一回りしてから紫獅塔付近を旋回すると、廊下から顔を出したシンドバッドを見つけた。

「王様」
「どうした、ヤムライハ。アリババ君たちは無事に出港したか?」
「はい。今頃島についている頃かと」


縁に手を置く彼の長い髪を、緩やかな風がさらっていく。ふわりと、果樹園の甘い香りが鼻腔をくすぐった。


「……いい天気ですね」
「? そうだな、波も荒れずに済んでよかったよ」


あははと笑うシンドバッドの後方から忙しない足音が迫り、廊下の端で緑のクーフィーヤがはためいた。びくりとあからさまに引きつった彼に、息を切らした彼は目を光らせる。この瞬間ばかりはいつも捕食者の狩場でも見ているような気分にさせられる。シン、と地を這う声が真昼の穏やかさを切り裂いた。既に後退気味なシンドバッドは乾いた笑みの中で、毎度ながらなんとも言い難い言い訳をどもらせる。


「ここ最近仕事やってると思ったらすぐにこれですか……! せめて二週間はもたせろよ!」
「い、いやあただのきぶんて」
「朝からですか!?」


今日は比較的おとなしく連れて行かれたシンドバッドは、もしかしなくともこうしてジャーファルが怒鳴りに探してくることを楽しんでいるのだろう。きっと、この声がなくなってしまったシンドリアは息がしづらくなってしまう。そんな穏やかな居場所を失えば、眩しさが煩わしくなってしまう。


「……何もないと、いいのに」


頭上をひらりと通り過ぎた黒い一羽のルフは、誰の悲しみの一部だろうか。指先で触れたところでわかりもしないのだけれど、どうか誰かの杞憂であってほしいと祈るのは、それらが見えてしまうからである。ヤムライハ様とどこからか聞こえた声に呼ばれ、漂うルフに声を潜ませる。
黒いルフは銀蠍塔のほうへ飛び立ち、それから眩さに消えていった。


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