陽も沈み始めた頃、アリババたちを送りに行った船団が帰ってきた。ピスティを先導に、赤みを帯びる海を切り裂いて港に寄せた船から降りる武官たちには怪我もなく、無事に航海を終えることができたようだ。
ヤムライハは沸き立つ人並みからひときわ背の低い少女――というと、彼女は拗ねてしまうのだが――を探し出し、合間を縫って彼女のもとへと歩み寄る。ピスティ、と名を呼べば彼女は振り返り、朗らかに笑みを浮かべた。その手元に収まる羽を模した笛が、赤い波長を跳ね返し、ちかちかと視界を白くさせる。少し目を細めながら短い船旅の感触を問うと、ピスティは笑みを僅かに翳らせた。


「……やっぱり、ここは合わせづらいや。試しにイルカと、あとは南海生物とも合わせてみたけど、全然普通だったから」


彼女が笛に唇をつけて息をやわく吹き込むと、ぴりりりと高く軽やかな音が鼓膜を揺らす。上空を旋回していた鳥が地面の砂埃を巻き上げながら降下し、ピスティの隣で羽を休めた。


「ちょっとの差だけどねー」
「そう…」
「そっちは、何かあった?」


いい子だねと小さな手が柔らかな羽毛に埋もれ、愛おしげに顔を寄せる。もともとの身長差と彼女が腰を屈めている分だけ高くなったヤムライハを見上げ、ピスティは笑ってみせた。そんなにも険しい顔をしていただろうかと彼女は自分の頬をさすりながら、何もなかったわと首を振った。何もなかった。それは紛れもない事実である。嘘など微塵もない。


「――そっか、じゃあ、帰ろっか」
「そうね、日が暮れる前に戻らないと」


結界にヒビが入ったということは、惜しまれるのは修復の労力だけではない。市街地を通りながら、すれ違う武官の数を目で追いかけては数字が増えていく。安全と安心感の引き換えに、言いようのない不安感を覚えてしまうのは寧ろ国民の方だ。


「一回仮眠を取って、夜に集合?」
「…ええ、ごめんね、ピスティは――」
「魔導士じゃないのにって? それは変だよ、だって私も八人将なわけだし」


足元をとてとてと過るオラミーを見つめて、彼女は「でしょ?」とまた笑う。


「…ありがとう、ピスティ」
「それは、犯人が見つかってからね!」


水面に沈む太陽を追いかけて、夕闇が迫る。通りを照らすランプが、頬を暖色に染め上げる。夕市の時間まで間もないからか、人の声がいつもより大きく聞こえた。



*  *  *



しゃらんと、髪飾りが揺れる音を聞く。それは、決まって自身の頭が垂れているときに聞こえる音だ。姫君、と控えめな声が下がる視線を上げるように促した。


「白龍皇子が迷宮に行かれましたが、今後どうなさるのです?」
「……そうね。でも、きっと、私なんて……」


ただの物見遊山で白龍についてきたわけではなく、勿論シンドバッドの件についてのためでもあったが、内に占める大半の理由としては居た堪れなさであった。バルバッドでのあの対応を冷ややかに責め立てられ、歩を進めるたびに飛び交うのは無言の侮蔑である。そんな場所に、もう一度飛び込む勇気を、今は持ち合わせていなかった。
ふうと、息をついた彼はこつりと足音とともに一歩近づき、同じように王宮の外を見下ろした。ぼんやりと点在するランプの明かりが、うっすらと道を浮かび上がらせる。蠢く人の影を、そこに見た。


「姫君、それでは、何ら変わりありませんよ」
「! ……、夏黄文が私の側付きとなった頃のことを、覚えてるかしらあ」


父親は一国の皇帝であった。母親は、遊女であった。皇女として迎えられたのは厚意であり、道端で育つより確かに恵まれていたのだろう。しかし、皇帝の血筋としては最底辺で、それは紛れもなく心を抉っていた。劣等感というどうにもならない感情は、容易に足元を狭く脆くさせていく。その足場の存在さえ、否定してしまう。自分なんて、と、あの頃は刺々しい茨を自ら飲み込んでいた。


「少し、思い出したのよぉ。だから、」


言葉が詰まるのは、自覚していたからだ。
――夏黄文はとかく頭が良かった。煌の辺境の寒村で生まれ、難関も難関である科選に合格して登用された身なのだから、それはもう言うまでもなかった。そんな彼に諭されたのは、今からいったい何年前の話であったかもう思い出さずとも済むようになったけれど、その時に放たれた言葉は忘れようはずもない。あの冷たい禁城の中で、努力を惜しまないと――。


「……お兄様は、どう思ってらっしゃるのかしら…」


武人としての努力を怠ったことなど、一度だってない。それこそが、彼女の生きる道そのものだったから。それでも、彼女はあくまで煌帝国の第八皇女でしかなかった。


「……皇子がジンを手にしてご帰還されれば、本国からも迅速な帰国命令が届くことかと」
「そうね、」
「其の命には、姫君も含まれているのですよ」


紅玉たちが帰る場所は、煌にあり、煌にしかない。そんな上面の話を彼がしているわけではないというのはわかってはいたけれど、どうしても、目線は下へと下がるばかりだった。


「進むしか、ないのでしょう?」
「……」


目を、背けてはいけない。


「姫君の強さを、皆知っています。あとは、いつものように進みたい武人の道で胸を張ればいいのであります」
「夏黄文……」


軍配団扇で口元を隠しながら、彼は紅玉を見た。出世欲は人一倍強いのにそれがなせないのは、彼の優しさのせいなのだと、伏せた瞼の裏でそんなことを考える。いつもそんな思考が漏れているのを本人は知っているのか知らないのか、原因の大半はそれが占めるのだろうけれど。


「…今は、もう少し、考えさせて」


それでも、夏黄文がいれば一人ではないから。だからこそ、彼の紡ぐ言葉は温かいのだ。
生ぬるい風が頬を掠める。シンドリアは、陽が沈んでも眩しかった。



*  *  *



何も知らないくせに。何故、彼女たちは大丈夫と笑い、願ってもいない言葉を降らすのだろうか。
皺まみれのシーツに埋もれるように座り込み、窓から差し込む型どられた月の光を眺めていた。太陽の日差しのように身を焦がす熱はなく、生ぬるい温度を残している。
柔らかなベッドの上でさえ、打ち付けた腰が痛みを訴えていた。何度も何度も、ふわりと軽い足元ではすぐに地面に叩きつけられる。なるほど確かにこれならば、彼らを守れるほどの強さもない。守られるだけの、弱さしかない。


「……、」


ベッドに額を押し付ける。少しだけ湿った、太陽の匂いがした。
何も知らないくせに、そう繰り返す声が頭から離れないことこそが、弱さであると、きっとわかっている。言葉が痛いと、突き刺さる鋭さを覚えるのだから、思いとは裏腹にあるものもわかっている。それでも、時間が経てば経つほど、身の内に黒々としたもやが溜まっていく感覚が拭えない。目を瞑れば、目が覚めそうな意識が砂に沈んでいくようだ。


「……小隊長…」


呼ぶ声が聞こえない。返ってくる言葉もない。
独りなのだと、笑われているような気がした。帰る場所ももうないというのに、いったいどこへ帰るのだと。部屋の隅に憑く影から声がする。
そうして、十二度目の夜を迎えた。


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