真っ暗闇の中で何かが蠢いている。黒々と沈む視界の中で見ることは適わないが、粘着質な空気が液体のように流れている気配を感じた。
「何故、許す」
ぎょろりと白目が浮かぶ。次に黒目が穴を開ける。キロロと白の淵を周回するように穴が動き回り、そうして私を捉えた。
「憎くはないか、恨めしくはないか」
地を這うほどに低く重たい音が後頭部から前頭を駆け巡り、内から鼓膜を揺らしている。爪先を淀みが食らった。
「原因は? 発端は? 誰の所為だ、考えてみろ。それは、起こるべくして起こったのか」
目玉がひとつ、靄に潜る。ぎょろりと背後で顔を出す。まるで誰かがぐるりと歩き回りながら、諭しているかのように。
淀みはそうして脛を食らい、膝に牙を突き立てた。
「考えてみろ、世界はいつだって、不条理だろう。許さずともいい。あるがまま。ただ、願うことは一つ」
誰かに背中を押された気がした。振り返れば、見慣れた顔が並ぶ。記憶のまま、変わらない彼らが笑っている。私の世界は、そこにあったのだ。
「大海を小舟で渡るには寂しかろう」
闇が笑う。比喩ではなく、空間が歪む。
遠い声が聞こえた。遠い笑い声が聞こえた。彼らから近づくことはない。無音の足音を鳴らし、一歩。誰かの影を踏んだ。
* * *
あまりにはっきりと目が覚めると、微睡みの名残が網膜で漂うのだ。残り香は脳の表面を渡り、どこからが現実なのかという境界を飲み込んでしまう。――或いは、どこまでが夢なのかを。
瞬きも忘れて境界線を辿っていれば、ひらひらと何かが視界で舞った。見つめようとするとそれはどこかへと消え去り、再び何事もなかったかのように視界の端でたゆたっていた。
太陽が真上から西へ傾く少し前。ようやく体を起こした彼女は手ぶらのまま部屋を後にした。座り込んでいてはいけない気がした。いや、それは気などと朧な感覚ではなく、もっと明確な意識である。ひたすら歩き続けていなければ、何かが起こるような。――もしかすれば、それは彼女が心の内でずっと願っていたことが起こるのかもしれない。この言いようのない感覚が良いのかどうか、それさえもよくはわからなかったが、これまたなんとなく心地の良いものではなかったような。しかしそれは確かに、この足を止めない意識を押している。
紫獅塔を抜け黒秤塔の前を通り過ぎる。行き先などなく、ただ黙々と歩き続けた。そうして紫獅塔の真正面まで歩いたところで正午を告げる大鐘が鳴り響いた。
ドォン
鐘の音とは明らかに異質な音が混ざる。どちらも上の方から聞こえるが、それは地響きに似ていた。周囲の官吏たちが一様に上空を見上げるのでつられて見上げれば、空が熱せられた飴細工のように溶けている。いや、本当の青い空はその向こう側にあった。薄皮のように全空を覆うそれはどろどろと溶け出して穴を広げていく。どよめきだった声が両耳で音叉のように波打ちながら響いていた。
――穴の中心でゆらりと黒い影が浮かぶ。一瞬世界の音が絶えたように、反響していた戸惑う音が失せる。ジュダル、とシンドバッドと何人かの怒声を聞いた。
ジュダルと呼ばれた彼が地面に足先をつけるまでに、どよめいていた武官たちが皆武器を手に中庭を取り囲んでいた。張り詰めた空気が、この事態が異常であり危険なのだと肌を伝って教えた。
ナマエの正面にそびえる紫獅塔から飛び出してきたジャーファルが、光を帯びるナイフに似たそれをジュダルに向かって放つ姿が見えた。蛇のような光が彼を締め付けるように弧を描くも、それは突如現れた竜巻がジャーファルを諸共吹き飛ばす。壁面に叩きつけられた彼は前屈みのまま立ち上がり、口から血を吐き出す。もし空気に形があるとするのならば、彼の周りだけ異質に歪んでいるのだろう。殺伐とした雰囲気が遠く離れたナマエにも届いていた。
「何をしに来た、ジュダル」
いつも柔らかな物腰であったシンドバッドとは打って変わり、静かに怒る声を聞く。そんな棘をものともせず、ジュダルは手を挙げて笑ってみせた。
――耳元で声がする。言葉を聞き取れるほどはっきりとした声ではなかったが、それは確かに何かをつぶやいていた。ざわりと広がるざわめきは心臓の奥で靄を増し、彼を見ていてはいけないのだと誰かが告げる。指先から涸れていくような感覚がした。
「ジュダルちゃん…!?」
甲高い声が停滞する思考を裂く。はっと淀みから意識を返せば、隣にはいつぞやの深い紅色の髪をした彼女がいた。紅玉――と名乗っていたような――は飛び出したがる身体を従者に引き止められながら、見開いた両目でナマエと景色を映した。
「様子を見ましょう、姫君。ここで飛び出しては私たちの立場も危うくなります…!」
「そう、そうね……」
この国や彼女たち、そして渦中の彼との関係性は知らないが、シンドリアからしても彼女たちからしても、彼の存在は予想外らしい。恐らくあの薄い膜は結界の類なのだろうから、それを破って入ってきたということは攻撃的な敵意に匹敵する。この場にいる者に許された敵意は、個人の意思に見向きもしない。そうでないと否定することはできても、他者の心の内までをも否定することはできないのだから。
「――だからこそ、決めたんだ……全部、俺が滅ぼしちまおうってな!」
紅玉たちの不安をよそに楽しげに話す彼の言葉が、じわじわと色を変える。殺し合うほうが楽しいんだと笑ったジュダルの周りを漂う空気の息苦しさに思わず後ずさりした。
心臓が震える。喉が酷く乾いて、視界がぐじゅぐじゅとぼやけている気さえする。この見ている世界のどれだけが、みんなと同じなのだろうか。
「そしたら、ここの番だよ…。煌帝国がこのシンドリアを滅ぼすのさ!」
「――っ姫君!」
中庭に躍り出た赤に視線が集まる。どういうこと、とか細げに呟かれた声に振り向いたジュダルの瞳が、紅玉越しに背景を映す。夕日とも違う真紅の双眸に、気づけば走り出していた。立ち呆ける女官を押しのけ、ひたすらあの視線の届かない暗がりに逃げ込むように、中庭に背を向けて緑射塔の階段に差し掛かりようやく足を止める。
どくりと脈打つ心臓が、赤とは違う何かを送り出しているような気がして無性に吐き気を覚えた。いくら服の上から掻きむしったところで不快感は拭えず、首筋が氷を当てられているかのように冷たい。
つま先から淀みに埋もれていく。立ち止まっては、いけない。ここから、逃げなければ。逃げなければ、動かなければ、この淀みに心臓を奪われそうだ。
ずぐずぐと侵食していく靄を追い払うように、足を手でさすった。
『憎くはないのか、恨めしくはないのか』
嘲笑う声はすぐそばにまで、迫ってきていた。
▽ BACK TOP △