未だ騒然とする王宮内で、シンドバッドは執務室に篭もり黙然としていた。国内の様子を見てきてほしいと頼んだ八人将の報告を携えたジャーファルが来るまでの間、そしてアリババたちが港に着くまでの間、思考を止めるわけにはいかない。
紅玉が先ほどのジュダルの件について真っ青な顔で進言してきたが、やはりあれは彼の独断であったのだろう。確かに紅玉は第八皇女で政治的地位は低いが、それでも煌帝国の迷宮攻略者である。そんな彼女がこれから戦争を仕掛けようとする相手国に残留している中で挑発すれば、彼女の身に保証はない。今は攻略者の一人も欠けさせたくないはずだ。――ただ、それがジュダルの独断であろうとなかろうと、今日の出来事は恐らく煌帝国にも伝えられる。そうなれば、シンドリアと煌帝国の友好関係など容易に崩れ去る。もともとどちらもそんなものは表面上のものにすぎなかったが、あるのとないのでは雲泥の差だ。全くどうしてこんなにも悩みの種が尽きないものかなと淡い笑みをこぼせば、コンコンと心なしか柔らかい音が彼を呼んだ。


「只今戻りました」
「ああ、すまないな。どうだった?」


とくに異変はありませんでした、と頭を横に振って報告したジャーファルに少しの安堵のため息をついた。彼はいつものように両袖を合わせて目を合わせる。


「船影が遠くに見えたそうですよ。ピスティによれば、アリババくんたちを乗せた船だろうと」
「そうか。それなら、俺も出迎えようかな」


豪奢な椅子から少し腰を浮かせたところで、何かをまだ口に含ませたまま唇を噤むジャーファルに、シンドバッドは再び座り直した。その動作に僅かに首を傾げた彼は意図したものに気づいたのか、一瞬の間を空けてから咳払いをした。


「白龍皇子も見えることですから、紅玉姫もお呼びいたしましょう」
「…ジャーファル」
「はい」


徐に腰を上げたシンドバッドは机を迂回するようにジャーファルに近づき、そのまま彼の腕を掴みあげた。掴まれた左腕は肘が胸の高さを超えるより先に、彼自身が右腕で押し戻す。然程強く握っていたわけではなかったのだろう、シンドバッドは離れた手を少しだけやわく握り締めると胸の前で腕を組んで机に寄りかかった。


「医務室には行ったのか」
「ただの打撲ですから、支障はありません。それよりも――」
「骨でも折れていたらどうする。とにかく、一度診てもらえ。お前が倒れるわけにはいかないだろう?」


最後の一言に押し負けた彼が何かを言う前に、シンドバッドは一人王宮を後にした。とかくジャーファルは無茶をしたがる。それをさせているのはなによりも彼自身であるのだが。医務室にいけと言い残したところで彼が行くかは定かではないが、有事の際に動けないということがどういうことか、彼はよくわかっているだろう。
日が沈み始める空を見上げ、それから項を掻いた。ジュダルの狂気の名残が飛び交っている気配がする。杞憂であればいいなどと、最早誰も思ってはいないだろう。



*   *   *



骨が折れている感触がないからと油断していた。打撲も痛みを伴う。癖で両袖に手を突っ込めば久しぶりの体の軋む感覚に、思わず腕を下げてしまったのがいけないらしい。情けない、と細く息を吐きながら、一応主命であると言い聞かせて医務室へと向かう。
途中紫獅塔を通る傍ら、ふいに見上げた上階に気が留まった。先ほどの騒ぎの中、もしジュダルが彼女に気がついていれば尚更混乱したことだろう。なにせ、彼女にはルフがない。それは彼にも、彼だからわかるものだ。ルフのない人間というのがどれほど彼の興味を引くかなど知りたくもないが、最悪を想定した場合の話である。何も関わらなかったのならばそれがいい。
こつん、と橙に染まる階段をのぼっていく。足先が床を叩き、重力に逆らってのぼることは意外と全身の筋肉を使うらしい。それともそれなりに背中を強かに叩きつけたからなのか、些細な振動が微弱な痛みに変換されて伝わっている。これはやはり、シンドバッドの言葉に従って良かったのかもしれない。やっとの思いで彼女の部屋がある階にたどり着けば、一瞬我に帰った。何故こんなにも気にかけねばならないのだろうかと背後から声がした。その声に答えがあるというのなら、今更そんなものは聞こえるはずもない。
無機質な扉に手の甲で合図をかければ、返事はなかった。いや、寧ろ返事があった覚えがない。ヤムライハたちは度々会うからか以前食事をしていた風景を見たことがあるが、そもそも八人将の誰かと話している姿をあまり見かけない。どちらかといえばアリババたちについて回っていた印象の方が強いのは、あながち間違いではないのだろう。
いないならいないで、別段部屋にいろと強制しているわけではないので構わないのだが、行き先が気にならないといえば嘘ではない。一言断ってからノブを捻れば、やはりそこはもぬけの殻だった。


「……はあ」


後味が悪い。きっと集約すればそうなのだろう。全てを信じるわけではないが頭ごなしに否定しているわけではないのだから、良心じみたものはこれでも持っているのだ。帰れるなら早々に帰ってくれるほうがどちらからしてもいいのだろうから。


港の方から順に騒がしくなり始めた頃には、太陽も残り一部分を残して沈んでいた。シンドバッドが王宮に戻ってくるまではもう少し時間がかかるだろう。歩きながら探すと決めたところで思いつく場所もなく、ただ医務室から遠回りでもしながらあたりを見回す程度である。


「どうかされましたか、ジャーファル様?」


残念ながら、医務室につく前に見つけることはできなかった。治療師にあらましを説明――しなくとも一部始終を見ていたのか、言葉少なでも処置を始めてくれた。取り敢えず、今夜はアリババたちの迷宮攻略者として宴でも開かれることだろう。ともなれば、シンドバッドは彼女たち一人ひとりを回り、もう一度力を得るのだ。
お大事になさってくださいね、と柔らかな言葉を背に、廊下から中庭を臨む。
彼女も、力の一つだ。見慣れぬ魔法をまだ持っているはずだ。それはいつかシンドリアのためになる。力も人間も、多ければ確かに、多いほうがいいのだから。


「とにかく、港に向かいましょうか……」


小さな体で泣かれるのは、気分がいいものではない。幼いそれを思い返させるようで息が詰まる。その度に笑うのはシンドバッドが目の前にいたからだ。輝きながら陰っていく背に魅了され、血豆の潰れた手の平を向けられるからだ。
仄暗い空にぼやけた月がのぼる。夕暮れが遠のいてく。この世界が彼女にとって苦痛でしかないというのなら、忘れてしまえることは幸せなのだろうか。
すべてを忘れてしまえるというのなら、それはなかったことになってしまえるのではないだろうか。


(そんなこと、いいわけないだろう)


それが救いだとしても、そんなものは葉巻と同じだ。見せかけの心地よさに浸るほど、身も心も蝕まれていく。気づいた頃にはもう、手遅れだというのに。


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