ぽっかりと大きな穴を開けたように浮かぶ月より明るいランプの灯火が、足元に仄暗い影を落とす。陽気に踊り歌い笑う人々が視界に入るたび、狭く暗い路地に逃げ込んだ。素足がタイルの凹凸に痛みを訴え、両隣も前も後ろも誰もいないことに頭を振る。――初めから、初めからこの世界には誰もいないのだ。あの世界にも、もう誰もいないのだ。
胸の苦しさにもがきながら歩くうちに、見上げるほどに巨大な両開きの扉の前に立っていた。中に入るものには厳重に、されど出ていくものは簡単に通れるらしいそれはこの王宮の南側に位置する門のようで、槍を携えた武官に見送られながら中央通り付近を進んだ。影から影を渡るように、そうして広い通りへと押し出される。黄色というべきか白と表現するべきか、不完全な誰かを笑うように完全なる月の影が海面でゆらゆらと震えていた。祭りの喧騒は近いようで遠く、人気も疎らである港口を浜辺に沿って立つ手すり越しに見やりながら歩く。
浜辺に打ち付ける波の音が静かに響く。その音につられるように、手すりに上体をもたれさせて下をのぞいた。タイル張りの道から一メートルほど下には砂浜がある。隙間の荒い手すりの間に身を滑り込ませ、とんと飛び降りた。そうして、しゃがみこんで横に倒れこむ。左頬が砂粒にうもれ、潮の匂いが近づいた。
足先から埋もれていく。この感覚は、夢と同じだ。砂漠を歩いたあの日と同じだ。埋もれていけば、何故だかあの日々に帰れるような気がした。息を止めれば、帰れるような、気がした。
小さな手を伸ばす。この手を、モルジアナが引いて歩いてくれた。彼女の手はひどく温かく、ナマエの手の冷たさを知った。ぽとりと重力に従い落ちた指先が砂に溶ける。
――立ち止まってはいけない。そう思うのに、足は一歩たりと動かなかった。視界の先で黒い鳥が舞う。一羽二羽と目で追うたびに数は増え、きっとこの黒さに覆われてこの両目はなにも見えなくなるのだろうと漠然と感じた。つつつとその鳥の行先をたどれば、思いがけない白を見た。青白い光を受けて、まるで陶器の様な肌に月の糸を手繰ったような髪が深緑のクーフィーヤの下で揺れる。夜の水面に似た瞳が、鋭く射抜いて逃さなかった。
てっきり砂に溶けてしまったと思っていた指先が粒を掻き、むくりと起き上がる。ぼうっとする頭の中で彼の名前を探してみたけれど、出てきたのは疾うに死んでしまったあの人たちの名前ばかりだった。
「……あまり、夜遅くに出歩くものではないですよ」
聞き覚えのある台詞。いつどこで聞いたのかもわからないのに、その声音で呟かれる言葉が耳に馴染む。
三段ほどの小さな階段の傍に、その人はいた。ナマエの目には相変わらず黒々とした鳥が飛び交い、向こうの海に沈んでは浮かびを繰り返している。
「いつ見ても、真っ青な顔ですね」
さくりと砂を踏む音がする。ゆっくりと、ゆっくりとその音は近づき、やがて立ち止まった。ちろりと前髪の間から盗み見れば、彼は近くとも手を伸ばしても届かないところに立っていた。
「海が好きなのですか」
ふるふると頭を左右に振る。あんなにも恐ろしかった海が、砂浜が、今は何も感じない。波音を聞いても、この心臓はひどくゆっくりと拍動を繰り返している。
「どうして、ここに?」
引き寄せられるように、或いは背を押されるように、止まらない足はこの場所へ向かっていた。いや、向かっていたのか行き着いたのか、それさえも定かではない。
何も答えずに俯いていれば、だれかの息をする音が聞こえた。
「……大丈夫だって、」
言葉にしてようやくその声が自分のものだと知る。問いかけを重ねる彼に、あの紅の髪の少女の姿が過る。瞬きを一つするたびに、黒い鳥は一羽二羽と消えていった。
「どうして、大丈夫だって、いうんですか」
彼を見上げるには疲れてしまった。肩から頭の先に鉛を置かれているかのようで、視線はひたすらに砂を追いかけている。
皆一様にその言葉を紡ぐ。誰の心も見たものかとただ吐き出される言葉に意味はなく、頑なな唇はなおさらに張り付いていった。
――守りたいと、役に立ちたいと思っていた人の背中に隠れ、のうのうと息をして生きている。指先にめぐる熱は疑いようもなく、眼前に開く景色に偽りはない。ただ長い夢を見ているのだと思えば、この苦しさはより一層心臓を食い潰していくようだった。
「……笑っていたから」
耳元で薄い膜が弾ける。ぱちんと、先程より鮮明な声が脳内に響く。
「貴女が、笑っていたからですよ」
視界の端で彼の指先を捉えた。ネジを巻いて動く玩具のように、時折一切動かなくなったかと思えば、ゆるりと大きな手のひらが前髪に触れる。手と頭の間にある僅かな空気をなでるように、滑らかな言葉とは反対にぎこちない指先がひどくおかしかった。
「……どうして…どうして、笑えるんですか…っなんで、何年も経ったら、忘れるっていうんですか」
「忘れてしまうことと、受け入れることは違います。忘れてなかったことにすることを、責めるつもりはありません。それでも、貴女は忘れないことを選んで、あなたの知っている世界で、生きていたんです」
脳天から垂れる糸につられるように、頭を上げる。同じ目線にあるそばかすの散った頬に乗る双眸が、気まずげに細まった。
「…悪夢にしたくないと、言ったのは貴女でしょう」
喉の奥が渇いていく。彼の話すナマエなど知らない。それなのに、はらはらと目尻から涙がこぼれて止まらないのだ。
生きろと告げた仲間の言葉が、心臓に深く突き刺さる。彼はあの時、まさかたった一人生き残るなどとは思いもしなかったのだろう。だからこそ、何度も何度も鋭く貫いてえぐられていく。
笑っていた彼女の話は、今のナマエには他人事も同じで、ならば今この心に巣食う感情はどこに押し込めばいいというのだ。
「貴女の延長線上に、彼女がいるだけですから。どちらも同じナマエだけれど、無理矢理丸め込む先を決めつけなくても、今の貴女はここにしかいませんよ」
細い前髪の奥で眉尻が下がっているのを見つけた。彼は両手を袖口に突っ込んで胸元に落ち着け立ち上がると、「そうでしょう?」と淡く微笑んだ。
「――ジャーファル、こんなところにいたのか」
ゆるく首をひねって見上げた先で、長い紫の髪が垂れている。しなやかな髪の先がジャーファルの頭に触れるほど近くで風に揺れ、頭上から探したよ、と柔らかな声が降り落ちた。そうして逆光で不鮮明な瞳がナマエを見つめる。
「おや、邪魔をしてしまったかな」
「……シン。よく、ここだと分かりましたね」
「ははは、勘は当たる方でね」
目の前で交わされる言葉に、凪いでいた水面が波立つ。彼の声が、既知の笑い声と重なる。
――ダミュロンは、私をよくからかっていてばかりだった。妹みたいなものなのだろうと笑いながら教えてくれた隊員は、そういえば誰であっただろうか。
「今、戻ります」
「ああ、すまないがそうしてくれると助かるよ」
踵を返した彼の背に、思わず声が弾けた。なんと言ったか自身でも定かではないが、暗闇の中去っていく背中がひどく怖かったのだけはなんとなく分かった。
その背中に赤の染みを見た。瞬きをしても消えない赤が滲む。振り返った彼の肌の青白さが、いやに生々しく思えた。
「……ナマエ?」
その名を呼んだのはシンドバッドだった。砂に埋もれた膝を立て、頼りない二本の足を地につける。ふらりと揺らいだナマエの身体を支えようと伸ばされたジャーファルの腕にしがみついて、唇が何度も何度も役に立たない治癒魔法の言葉を紡いだ。足元の魔法陣が徐々に薄くぶれて、現れては消えてを繰り返す。役立たずだ。なんて無意味な言葉の羅列で、あの背中の赤の染みはどれだけ呟いても消えてはくれない。キィと甲高く耳障りな音が魔導器から発せられ始め、歪んだ視界の端から赤い光に侵食される。ナマエと、そう名を呼ばれたのは夢の声かジャーファルの声だったか。首筋に鋭い痛みを覚えた後に離れた意識のせいで、それもよくは分からなかった。
* * *
彼女の左耳に下げたピアスが嫌な音とともに赤く光り始めたのを皮切りに、周囲の空気が異常な程肩にのしかかってきた。ナマエと押しつぶされたような喉で彼女の名前を呼べば、柵を乗り越えて飛び降りてきたシンドバッドがその細い首に手刀を落とした。不意のことでがくりと気を失った身体を支えきれずに砂浜に膝を付けば、大丈夫かと声が降る。それに頭がついていけずに返答しそこねると、彼はぐいとジャーファルの肩を掴んでゆすった。
「だ、大丈夫です」
「…驚かさないでくれ…、しかし、何があった? 急に、さっきのは彼女の治癒魔法だろう?」
「その、ようですね、背中の痛みも…引いたようですし」
先程まで痛みを訴えていた背中は僅かな違和感を残してはいるものの、おおよそ動かせる程度には回復している。いや、それは今はどうでもいいのだ。彼女はこの怪我に気づいていたわけではない。彼女の目に映り、癒していたのは恐らく「ヒスーム」という誰かだろう。
「…一度、王宮に」
「そうだな、俺が運ぼう」
軽々しく横に抱いたシンドバッドに乾いた笑いをこぼし、足跡のない砂浜を戻る。寒気が、治まらない。あの瞬間感じたのは暗く濁りどんよりと質量のあるモヤだ。喉の奥にへばりついた異物が、絡まって消えない。深海にいるように、息苦しかった。
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