昨日の日も暮れた頃に、布を体に巻きつけただけのような簡易な服装をした女性が、夕食と思われる質素な食事を運んできてくれた。見たこともない鮮やかな色をした小振りな魚はほどよく身を焦がし、ミルクで柔らかく煮込まれたパンがじんわりと胃に染みた。
まさかあれだけ警戒心を剥き出しにされながらも、食事が出るなど思ってもみなかった。八人と一匹という大人数で旅をしていたので野宿と食事抜きには慣れてはいたが、九日ぶりとなれば香ばしい匂いにぐうと腹が鳴った。食事はすべて美味しくいただき、膳を下げに来た女性に何度もお礼を伝えてしまうくらいには満たされた安心感はあったのだと思う。
それも翌日に目も覚めれば、落ち込まずにはいられない現実に直視することになってしまうのだけれど。
「……知らない世界なんだなあ…」
小窓から漏れる朝日は眩しく、目を細める。
朝一番にもう一度治癒魔術を施してから、のっそりと起き上がった。大して治りもしていないが痛みは幾分落ち着いてきていて、起き上がった勢いのまま立ち上がり、視線より高い位置の窓に手をかけた。近くの木箱を足場に目線を高くすれば眼下が見下ろせる。かなり高い位置にこの部屋はあるようで、遠くに広がるのは美しく活気ある町並みと更に奥の方に小さく見える海は少しだけあの日の恐怖を彷彿とさせた。
ぶるりと身震いした肩を片手で抱き、木箱から足を下ろした。
布団と呼ぶにはあまりに粗末なそれを畳み、それから右横の壁に凭れるようにしながら辺りを見渡す。昨日と変わらず質素な部屋だ。ペタリと素足から伝わる石のような床は冷たく、どこまでも固い。
拭かないよりマシかと、今まで熱冷ましのために使っていたタオルを水に濡らして塩水でべたつく体を拭う。半袖のシャツを脱いで赤の染みだらけの包帯も外して現れた傷口に思わず顔をしかめた。左肩から右脇腹にかけて斬られた傷は血こそ固まり塞がってはいるが、ところどころ皮膚が突っ張っていて赤黒く、身を捩ればすぐにでも開いてしまいそうだった。怪我などもう慣れっこだとは思っていたが、こんな怪我を何日も放っておいているのは久しぶりで、傷ではないどこかがちくりと痛む。
――今にもお節介焼きの治癒術士お嬢様が血相抱えて飛んできてくれるような、そんな期待をしている自分に笑う。
気心の知れた仲間の姿など、もうどこを探してもいるはずがないとわかっているはずなのに。
過った寂々とした思いを飲み下し、桶の脇にあった替えの為だろう新しい包帯で巻き直し、縒れた服を着る。傷口がすれて、そのたびにまた疼くので本当に痛みばかりで嫌になる。
ここに来る前から血やら土やらで薄汚れた元は白のズボンのベルトを外し、脱いでベッドに放った。いつできたのかも何故できたのかも忘れてしまった切り傷の跡に、何だか今は酷くほっとした。
タオルを桶の水に晒し、固く絞る。それを太ももに当てようとして当然の如く呻いてから、そうして不意打ちの来訪者が現れた。
コンコン。
「――失礼します」
「っ! まっ、て!」
起きてないと思ったのか、声の主――おそらく昨日のジャーファルであると思われる――は扉をわずかに開けた。
ズボンを履いていなかったナマエは思わず手元にあった枕を扉に向かって投げつける。ごん、と明らかにそれは投げた枕以外の何かが扉にぶつかった音であり、彼女は急いでズボンを履き終えるとがばと扉を開け放った。そこには額を抑えるジャーファルがおり、隣でマスルールがその様子を無言で眺めている光景があった。
「も、申し訳ありませんジャーファルさん…!!」
入り口で頭を下げること十数回。
彼の肌が白いために、ぶつけた額の赤さがよくわかる。それを見るたびに口につく謝罪はかれこれ何度目のものだろうか。
「いえ、勝手に開けた私が悪いですので、謝らないで下さい」
最後にもう一度すみませんでしたと呟けば、ジャーファルは流石に引きつった笑みで本当に大丈夫ですよと手を横に振った。創に触るでしょうからと柔和な笑みを向けられたので、それに甘んじてナマエはおずおずとベッドに腰かけた。
「それよりも、体調の方は大丈夫ですか?」
「はい、順調に。ありがとうございます」
「いいえ、回復しているのであれば良かったです。あと、どうぞ、替えの包帯です」
すと差し出された替えの包帯はまだ白く新しい。治癒術に頼りすぎていた所為で、こういう応急セットは反対に見慣れない。
お礼と共に受け取るも手持ち無沙汰に両手の中に収めていた。
ジャーファルはぐるりと部屋を見渡して、それから彼女に話しかけた。
「記憶は、戻りそうですか?」
「……そう、ですね。怪我が多かったということは、」
治癒術を覚える前の生傷が絶えなかったときの傷跡が、足だけでなくそこらかしこにまだ残っていた。旅仲間によく、君は女の子なんだからとよくお説教されたななんて不意に脳裏を過ったものだから、鼻の奥がつんとした。
――彼は真摯に相槌を打っているように見せかけて、じっと腹の奥を見定めている。昨日から受けるその視線は、彼がこの王国の重鎮で、近くに守らねばならない誰かがいるからこその責任感であるとなんとなく感じた。つまるところナマエはその誰かの命を狙いに来た何者かであると疑われているのだろう。
身に覚えのない懐疑の目を向けられることに少なからず苛立ちもあるが、得体の知れない相手がすぐそばにいると考えれば、それも致し方ない。
「……旅でもされていたのでしょうか」
「え?」
ぴくりと反応した瞼に、目を逸らす。
記憶喪失だという設定に準ずるのであれば、惚けていた方がいいのかもしれない。そうしたところでこの状況が打破できるとも思えないが、ナマエ自身が計りかねている現状では何を言ってもその疑惑を晴らすには無意味な気がした。
正直話していて神経がすり減らされるような思いだった。――下手に嘘をつかない方が、よかったのだろうか。
「傷が多く、剣と魔法の腕も立つということであれば、旅商人や隊商の護衛だったのかもしれないと、思いまして」
「いえ、魔術はちょっと齧ってる程度ですから大して……」
はっとした。いや、これは顔に出してはいけない。
「……話していた方が、いいのかもしれませんね」
はははとできるだけそれらしく笑う。
彼の問いかけに対して掻い摘んでまるで思い出すかのように答えていく方が、もしかしたら疑惑は晴れるのではないだろうか。
彼は一瞬すっと、目を細めてにこりと笑った。
「不意に、意外と思い出すのかもしれませんね。今みたいに」
勘づかれているが、それもそうかと半ば諦めも混じっている。
彼のような人は他人の嘘を見抜くのが上手い。
こちらが言葉を選んでいるように、彼もナマエが墓穴を掘りそうな返答をするように言葉を振ってきている。言葉遊びでジャーファルを騙そうとも言い負かそうだなどとも思わない方がいいのだと知った。
「そうですね、でもよかった」
「…、何がです?」
「こうやって話しているのが貴方で。気を遣ってくださって、本当にありがとうございます」
少しの皮肉はある。覚えのない人物への弑逆などを企てているのではという目はかなりストレスだ。なんといっても知らない上にその人物に全くの興味も関心もないのだから。
ジャーファルはわずかに目を見開いて、そばかすの散った目元を緩めた。
「いえ、ほんのお手伝いほどしかできませんが――」
「そんなことありません。昨日の夕食も美味しかったです」
このまま話を逸らしてしまおう。
彼女自身嘘をついたりするのが苦手なため――断じて根が素直などというわけでなく、いつ知られてしまうかというハラハラしたものが苦手なだけ――こんな腹の探り合いなど端からするつもりはなかったのだ。彼からしてみればこちらの素性が知りたいのだろうが、その素性とやらも証明できる手立てがないのだ。
ナマエがナマエであるという生きてきた全てが、この世界には存在し得ないのだから。
「――そういえば、お返しそびれていました」
そう言って彼は黒を基調とした上着を手渡す。両手で広げてみれば、ぼろぼろに斬られた跡はちゃんと繕われていた。
「繕ってくださったんですね、ありがとうございます」
「あまり見たことのない生地でしたので。私も様々な国を見て回りましたが、そのような生地は初めて見ました。是非教えていただきたいものです」
ジャーファルや後ろのマスルールの服装を見れば、彼女のそれがいかに珍しいかは一目瞭然だった。厚さがまず違う。彼らや侍女の生地はまるで本当に一枚の布のようだった。――もしかしたらそれはこの地域の気候の所為かもしれないが。
「そうですねえ……」
アレクセイと戦う前に、確かに胸ポケットに仕舞い込んだものがあった。
袈裟斬りの傷とはちょうど反対のポケットには膨らみはなく、次いで腰元も漁ったが見当たらなかった。――罰が当たったのだとでも思えばいいのだろうか。最後まで腹積りを定めかねたことへの、仲間にあんな惨いことをさせたことへの罰。
涙を流すことも許されないような気がした。
「どうかしたのですか」
下唇を噛む。ぎゅと握り締めた上着から、染み付いた血の臭いがした。
「ひどく、ボロボロだなと。――これが最後に受けた傷なんでしょうね」
あははと溢れた笑いも力ない。明らかに歪んでいる笑みを隠すように、服を持ち上げた。腰に巻いた太いベルトからは何もない金属の輪が下がっている。いつもはそこに長剣を差して留めていたけれど、手元になかった。本来なら膝上から後ろにかけてふくらはぎの長さまで広がる裾は、繕えないほど穴だらけでぼろぼろだった。
もう戻れないと思えば思うほど、胸が強く締め付けられる。
――チャリ、と金属の擦れる音がした。
「……探し物は、これですか」
彼の手の中に収まるそれは、ポケットの中にしまっておいたもの。なんでそれを、と口の形を作ってから、奥歯をかんだ。
「あなたを運んだあとに落ちていました。――記憶喪失というのは、嘘、ですよね」
窓から流れる風に、ジャーファルのクーフィーヤが揺れる。
彼としては記憶喪失だなどという体のいい嘘を暴くために用意した、細工の品々だったのだろう。縫い繕われた服も敵対勢力と疑っているのならする必要などない。まるで優しい振りをして、そうして予め手にしていた、記憶がないのであれば探すはずもないペンダントを隠し持っていた。
――平時であれば、その狡猾さを気にも留めないだろう。逆の立場だったとしても、あれこれと考えるだろう。ただ、今のナマエにとってはもう問いただすことさえやめてほしいと泣いてしまいたかった。
「……返してください」
すでに嘘と見抜かれている以上こんな茶番は無意味だ。
ずいと伸ばした右手から避けるように、彼は手の中に隠してしまった。――銀のペンダントが、きらりと光に反射した。
「いいですよ、返して差し上げます。ただし、こちらの質問に一切の虚偽もなく明確に答えて頂ければの話ですけど」
そんなものいりません、と言えてしまうほどどうでもいい品であったなら、どんなに良かったか。
首から提げることもできずに追いやるように胸ポケットに押し込んだ。もう、誰に弁解する必要も意味もない。
「……狡い人ですね」
「あなたも似たようなものでしょう」
こつん、とジャーファルはベッドサイドの低い棚にそれを置き、彼女を見上げる。腕を伸ばせば取れなくもないが、それより先に彼のほうが素早く取ることができるだろう。
面倒なことこの上ない性格である。
「……分かりました。嘘偽りなく、お答え致しましょう」
気は引けるが隠しておきたい話ではなく、隠さなければならない話でもない。
「それでは――」
じとりと湿り始めた手のひらを握りしめて、息を吐く。朝日は疾うに南に傾き、どこからか鐘が鳴り響いた。
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