眼前に現れるだだっ広い空間の半円形状に並ぶ長机の三列目に、老女は腰を下ろしていた。彼女は腰ほどまでの白い髪をそのままに、筒袖から伸びる青白く細い腕を組んだ膝の上に置いている。骨と皮膚だけのような指の先の赤黒い爪だけが色彩を帯びていた。
「シンドバッド…第一級特異点と呼ばれるお前が、ここに来てくれるなんて」
「……これはこれは、あなたのような女性に誘われるとは、今日はいい夢が見れそうだ」
「どんな夢がお好みかしら。生きながら皮膚をそがれる夢? 四肢を切り刻まれる夢? それとも、この子に殺されちゃう夢?」
くすくすとまとわりつくような笑い声が肌を刺す。彼女から視線を下へずらすと、刃筋を雫のようにこぼれ落ちる光がちかちかと瞬く。誇りなのだと言い放った彼女の声が、頭の奥で浮かんで消えた。
皺だらけの頬を引きつらせて笑う彼女は右手を振り上げる。どこからともなく聞こえる鈴の小さな音は、大講堂で反響を繰り返して脳を揺さぶった。ぐにゃりと老女が歪む。背を丸め、あらぬ方向へと伸び縮む手足に落くぼむ両目が笑う。ひとつ瞬きをした後、そこにいたのは年若い女であった。濡れ羽の長い髪は艶やかで、病的なほどに細かった腕や指先は肉付きの良くハリのあるものへと変わっている。魔法にあまり詳しくはないが、もしかすればこの女は精神感応系の魔法を得意とする魔導士なのかもしれない。となれば相手としては最悪の組み合わせになる。老いた女か若い女か、本体はどちらとは知らないが、早々に蹴りをつけられればそれがいい。剣を握る柄に力が入った。
「かわいそうに、かわいそうに。屍人を弄ぶとは」
ふわりと女は宙を舞い、少女の青い髪を柔らかく撫でる。ぼんやりとした両目は確かにこちらを見ている。浅紫の唇は確かにシンドバッドの名を呟いている。何度も何度もそう呟いては、少女の――ナマエの指先が剣を強く握り締めていた。
「…屍人だと? その子は生きた人間だ。己の手でなく、他人の手を借りて俺を殺そうというのか? 弄ぶというのなら、それは君の方だろう」
「笑わせる! この世にルフを持たずして生きた人間などいるものか。生命の源、万物の根源、定められた運命さえも。ああ、ああ、吐き気がするね。…ねえ、貴女も憎いでしょう、貴女を人形にしたそのシンドバッドはすぐそこよ。あれを殺せば貴女は誰の支配も受けないのよ」
女がナマエの頬を撫で、深紅の髪留めに触れた。
「伽藍堂だと言うのなら、詰めてしまえばいいわ」
刹那、足元から淡い光が満ち始めた。大講堂を囲むように八つの赤い光が筋をつくり、それに呼応するように、ナマエの髪留めも赤く光り始める。二人から距離を取ろうと後退すれば、二歩下がったところで壁に背がぶつかった。振り返り見れば、薄い光の膜が結界として作用しているようだ。
やけに冷静な頭が仕方ないと告げている。――彼女を拾った時から、この可能性はあった。女の言い回しを信じるのであれば、二人は初めからそういう関係ではないようだが、結果としては同じである。苦味を、飲み込んだ。
「シン、ドバッド」
踏み込んだ一歩。詰められた間合い。振り上げられた刃が月明かりに反射する。
「…こうならなければいいなと、思っていたよ」
鼓膜を突き破るような鋼の打ち合う音が響く。ギチギチと刃のすれる音に、現状が現実味を帯びる。どろりとした彼女の両目が、シンドバッドを捉えた。
「シン!!」
「シンドバッドおじさん!!」
一つは背後から、もう一つは左側から、それぞれ似たような言葉が後から続いたような気がしたが、そちらに気持ちを向ける余裕はなく、噛み合う剣を振り払って大きく間合いを取る。結界ギリギリに背をあずけ視線を向けれれば、ジャーファルとヤムライハ、左側の大窓からモルジアナとアラジンの姿があった。
「こ、れは、いったい…!」
「まあ、あまりいい状況とは言えないな。援軍を、と頼みたいところだが…」
「あら、こんなに集まる予定はなかったのだけれど。私、いつもどこか抜けているのよ」
くすと一笑をこぼし、ふたたび右手を振り上げた。次から次へと、と思わず笑いそうになれば焦りと怒りが混ざったジャーファルの声に諫められる。どうやらここには関係のない魔法が使われたようだが、考えられることとすればこれ以上味方が増えないようにと結界が張られたか増強されたか、その類だろう。まったく面白くない状況である。必然、頼りになるのはヤムライハとアラジンということになるが、なんの対策もなされていないとは考え難い。どうしたものかなとそれでも空笑いをこぼせば、片刃の剣を握り締めたナマエが飛び込んできた。
シャルルカンとの試合で見た動きより明らかに素早い。相手を殺す、という明確な意思――操作されているとは思うが――により剣は鋭さを増している。恐らく、ちょっとやそっとの傷ならば構わず突っ込んでくるだろう。それこそ、両足がなくなるか死ぬまで。操作されているのなら痛みなど気付くわけがない。――眉がひそまるのは、戦いづらいからである。剣は鈍らない。止めを刺されれば、目覚めた時、彼女はどんな顔をするのだろうか。
(……いっそ、意識があってくれたほうが、)
喉元をめがけ突いてきた剣先をかわし、飛び退く。視界の端で、黒いルフが漂い始めていた。
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