とても綺麗で、よくできた娘だった。そんな娘がこれまた心優しい恋人を連れて結婚するのだと笑ったあの時ほど、愛おしいと思ったことはないだろう。それからしばらくもしないある雨の日、事切れた娘が見つかるまでは、私も運命やルフを、心の底から信じて愛していたのだ。
* * *
黒いルフを取り込むたびにナマエの動きが人間のそれと逸脱していく。振り下ろされる剣をいなすシンドバッドは彼女を傷つけないように、自身も傷を負わないように、常に後退しながら狭い結界内を動き回っていた。あの魔導士が手を出してくる様子がないことが、現状で唯一の希望だった。
「…唸れ、氷結せし刃」
荒々しく追い込んでいたナマエが二歩、三歩と後ろに下がって剣先を床に突いた。瞬間青色の魔法陣を足元に展開させぼそりと何かをつぶやくと、彼女の背後から無数の氷の塊がシンドバッド目掛けて降り注いだ。――あの時のジュダルの魔法にも似たそれに悪寒が走る。地面を転がって大部分は回避できたようだが、彼の左肩の服は裂け、薄らと赤が滲んでいた。
主が金属器を身につけていなければ、眷属器はただの鋭利な武器と変わりない。ただ重たいばかりの両腕にどうしようもない怒りがふつふつと湧き上がっていた。
「ッ」
「ナマエさんにはルフがないから、なにか媒体になるものがあるはずなんだ」
「ア、ラジン」
「見つけてナマエさんから引き離せば、きっと、止まってくれる」
声のする方を見れば、すこし目線を下げた先で青い瞳がこちらを射抜く。温度もない透明で、しかし確かに存在する結界に手をついて、二人を睨むように見つめた。
あの魔導士に操られているのだとアラジンは言った。すごく、泣きそうな顔をしていると顔を歪めた小さな少年に奥歯を噛む。
――それならば尚更、彼女にシンドバッドを殺させるわけにはいかない。
ヤムライハが呟く言葉の少しも理解はできないが、結界を解くために彼女は懸命に考えている。天才魔導士なのだとあげた声が耳の奥で弾けた。
媒体になるもの。彼女が幼くなったのは謝肉宴のすぐ後だ。ルフのないナマエの身体を空の器だと称し、黒いルフを詰め込んだのだという言葉を鵜呑みにするのであれば、恐らく幼くなったのも記憶が退行したのも、魔導士によるものだろう。きっかけはヤムライハの防御結界を作るための魔法だ。ならば、やはり魔法は失敗などしていなかったのではないだろうか。直接的な発動原因がヤムライハの魔法であったのならば、アラジンのいう媒体というものが彼女が幼くなったのと関係があるのではないか。――謝肉宴の、あと。何かに気づきかけて、思考が止まる。自然と伏せていた視線をゆっくりと持ち上げる。月の光が、赤い光を反射させた。
「……っそうか髪留めか!」
ドォン!
ジャーファルの声と重なるように、なにかの爆発音が後方から響いてきた。熱いほどの風が吹き込み、灰色の煙がもくもくと立ち込める。吸い込んだ喉が焼ける感覚に思わず噎せ、目に染みるせいで溜まった涙でぼやけた視界に人影を二人見つけた。
「ア、アリババさん!?」
「っう、その声はモルジアナか? ゴホ、ゴホッ、うわ!」
「わ、ちょっとアリババ殿ぶつかってこないでくだ……っ!」
どしゃっと崩れる音がして、それから一瞬音が消えた。そうこうしている間に晴れてくる視界の中で、床に腕を突いて起き上がるアリババと白龍の姿があった。先ほどの爆発音はどうやらアリババの武器化魔装によるもののようだ。外側の結界にはこの魔法を使えなくさせる術が施されていないのか、魔装ならば大丈夫なのか、とにかくこれで騒ぎを聞きつけた武官たちも入ってこられるだろう。おそらく、だが。
「身体は大丈夫なんですか、アリババさん!」
「ああ、寝てる場合じゃなさそうだし、それで、この状況は…?」
「そうだ、アリババくんの武器化魔装なら、結界を破れるんじゃ!?」
「待って!」
魔法の解析にあたっていたヤムライハが顔を上げずに声を張り上げた。
「全部は解析しきれてないけど、一部なら解けそうだわ。それにさっきので魔力の制御が揺らいできてる。私が解いたときに、一瞬だけど結界の力が弱まるはずよ」
「っわらわらと集まりおって……!」
事を静観していた魔導士が黒い杖を振り上げる。円状の結界を挟んで眷属器を投げつけても間に合わない。ジャーファルが逡巡した刹那、ぶわりと風が舞った。視界の端で赤が過ぎる。魔導士の振り上げた杖ごと、身体が長机の間に吹き飛ばされる。軽やかに地面に降り立ったのは、モルジアナだった。
「モルジアナ殿…!」
ファナリスの脚力とは言え、相手は魔導士だ。物理攻撃が効くはずがない。しかし、攻撃の手を止めさせることはできる。
ヤムライハが後ろのアリババと目を合わせる。アリババが、白龍を見る。
「魔力操作、できそうか」
「! …最初から、そのつもりですよ」
アモンの剣から溢れ出す炎が記憶のそれよりも大人しい。白龍はなくなった腕の肩を握り、それから右腕で槍を強く握り締めた。
彼女の手元に命令式の羅列が浮かび上がる。見慣れぬ魔法式を指先で辿っていくように結界魔法に干渉していく。モルジアナがふたたび宙を舞った。
「二人共!」
ぐらりと見えないそれが揺らめく。ジャーファルは指先をナイフの刃先に滑らせた。ナマエがシンに襲いかかる。アリババの橙の炎が熱を伴って膨れ上がる。白龍たちの延長線上に、魔導士が叩きつけられた。
「アリババ殿!」
「おう!」
魔力を槍の矛先に集めていた白龍が結界を突く。ビシィと大きく亀裂の入った結界に、アリババの身の丈以上の高さまで燃え盛る炎がひび割れた結界を貫いた。
「ナマエ…!」
髪留めを切り落とせば、動きは止まる。眩しく痛いほどの熱に肌を焦がしながら、眷属器を投げつけた。炎に視界が焼かれる。重なるように立つ二人がうまく捉えられない。金属を切りつける感触がした。――違う。勢いをなくした左腕のそれを捨て、右腕に絡む眷属器を放つ。シンドバッドがこちらに背を向ける。奥に立つナマエの辛うじて見える項の向こうにある髪留めを、束ねた髪ごと切り落とした。ずぷりと、その音だけは、やけにはっきりと聞こえた気がする。耳元で爆ぜる音が、魔道士の笑い声に似ていた。
「…シ、ン」
悲鳴が、耳を貫いた。
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