随分と長い夢を見ていたからか、なんだか頭がひどく重たく、よくわからない感情に襲われた。これは、悲しいというのだったか、切ないというのだったか、苦しいというのだったか。とにもかくにも、ただぱたぱたと枕を濡らす涙は彼女の意思とは無関係に流れつづけていた。涙を拭おうにも、肩から下についているはずの腕がまるで動かなかった。指先を動かすだけでもひどく痛むものだから、次第に情けなくなって尚更涙が溢れてきた。渇いて渇いて張り付いた喉は嗚咽もでないくらいで、鼻にかかる奇妙な音が部屋の中で響くばかりである。余程体力というものがなくなっていたのか、暫く獣じみた声を漏らしたあとにまた遠い夢を見た。
父は騎士団を束ねる団長であった。その娘に生まれたからには行く道は己も騎士となる他なく、力強い父の背を見ていた私にとって、それには何一つ不満も疑問も抱かなかった。十三になる頃、初めてとある町外れの小隊に配属された時に父から贈られたピアス型の魔導器は、小さな私にはひどく重たいものでしかなかった。憧れであった父が大きすぎて、それでも捻て育つことがなかったのは、次に配属されたキャナリ小隊のおかげだろう。人魔戦争のあとから次第に捩れていった父を止めることができていれば、私は今頃こんな知らぬ世界に落ちることも、ユーリにたかだか私なんぞを斬ってしまった事実を負わせることもなかったのだろうに。
――そう、知らぬ世界だったのだ。シンドリアという国というものは恐ろしく巨大で強大な南海生物の危険にさらされながら、それでも強かに眩しいほど明るく動いている。世界の違いを探してばかりいたあの頃に比べ、明らかに欠けたのはなんだろうか。向こうは、こちらはと考えることをやめれば、何事にも左右されなくなる。受け入れてしまうことは、忘れてしまうことだと、だから、小さい頃の私は泣いていたのかもしれない。
柔らかく冷たいなにかが頬を撫でる。首筋から鎖骨、肢体を拭い、額に冷ややかなそれが乗る。もう一度目を覚ましたとき、空は深海のように思えた。瞼を薄く開けた彼女の傍でおそらく女性の声が二三聞こえた。なんと言っていたのかは寝起きのせいか長く眠っていたせいか、よくは聞き取れなかったが、適当に頷いてみる。ぱたぱたと数歩の足音の後扉は閉められ、それから間もなく扉が開いた。顔を出したのは、たしかジャーファルという人だったと思う。確信がもてないのはそれだけ向こう側の夢ばかりを見ていたからだ。何となくふと、人魔戦争の最後で助けてくれたあの人も、白い髪だったと思い出した。もう、どちらにしても関係はないことだけれど。
「気分はどうですか」
ぼうっとその人を眺めていれば、それがあまり面白くなかったのか眉間に皺を寄せて首を傾げられた。「…私のこと、わかります?」と続いた言葉が、不愉快のせいではないのだと教えてくれた。はい、と言葉にできたか怪しいがそれらしい音を発すれば、彼は皺を伸ばして眉尻を下げた。
「お水、飲みますか?」
そんなにも掠れていただろうか。この喉の渇きは、水分を目に映した瞬間さらに疼いたのだから、現金なものだと思う。コップに細長い筒が差し込まれていて、首の動きだけで口に含むことができた。
相変わらず全身は痛みを訴えて、思考回路を朧にしてしまう。ただ、彼の瞳が鋭くこちらを射抜いた瞬間、己の仕出かしたことを鮮明に思い出した。
「……シン、さんは」
じわりと、あの時の感触が蘇る。魔物を貫いたそれに似た感触だ。肉を貫き中身の詰まった内蔵を通り硬い骨を掠めるあの感覚は、緩慢だった脳内にどくりと大量の血液を流し込んで回転を速める。心臓がうるさいくらいに高鳴った。
「…なんとも。あなたが最後に、癒してくださったおかげで」
「……ペン、ダントが」
あの瞬間溢れ出た緑色の光はエアルそのものである。普段目に見えるはずのないエアルとルフは魔法の元素という点で似たようなものだ。おそらく、あのペンダントはエアル伝導率が高いもので、術技を使うたびにエアルが溜まっていったのだろう。元々魔導器ではなく、そもそもの魔導器も壊れてしまったというのなら、もう二度と、魔術は使えまい。
ぼうっと頭の中でそんなことを考えていれば、言葉に詰まっているのだと思われているのか気長に続きを待つジャーファルが視界に映った。
もし、あんな奇跡ともよべる魔法がなかったら、今頃シンドバッドはどうなっていただろう。自身の内側から湧き出す熱にうなされながら、声が聞こえていた。今思えば、あれは紛れもなくシンドバッドだった。彼が、あの熱を奪ってくれた。ゆっくりと思い出されるその瞬間に、どうしようもなくまた涙が出てきた。――きっと、シンドバッドが助かったから、などという綺麗な感情からではない。見殺しにすることも、殺すこともなかったという自分自身の無力さから放されたからだ。
「…よかっ、た」
「――すみません」
彼は頭を下げて、そのまま言葉を続けた。
「ピアスも、あなたの髪も、私が」
「いい、ですから」
今、感じていたのは自分自身の保身のためだ。それなのに、彼はそんな自分のために頭を下げているという。腕が動くのであれば、こぼれてしまった涙ごとこんな両目など隠して潰してしまえばいい。少しずつあげた顔に乗る彼の綺麗な瞳が、心臓をえぐる。
「…すぐに、ここから出ていきます。シンさんをこ、ろしてしまおうとして、皆さんに迷惑をかけて、ただ、どうか、動けるまでは、ここにいさせて頂ければ、」
隠せない腕の代わりに、固く目を瞑る。嫌な奴だと何度も囁く。どうして涙なんてものが流れてしまうのだろう。紛れもないこれは自分の責任だのに。下唇を噛めば噛むほど、押し込めた声がこぼれそうになる。堪えろ、堪えろと効かない自制がもどかしい。すみません、すみませんとうわ言のように吐き出される言葉のなんという虚しさか。
魔導器など、この世界に来た時点で飾りでしかない。髪など尚どうだっていい。それなのに、わざわざ彼は頭を下げるというのだから。
貴方の大切な人を傷つけてしまったというのに、何故そんなに穏やかでいられるというのだ。何をするのかとシンドバッドを刺してしまったあとのあの鋭さのままならば、どれだけ救われただろうか。
ジャーファルは徐に歩き始め、少し離れた場所で立ち止まった。
「幼いあなたも、今のあなたも、あまり違いはないのですね」
唇から、息が漏れた。
「黒いルフはもういなくなったというから、元から後ろ向きなことばかり考える人だったんでしょうか」
くすくすと小さく笑う声にうっすらと目を開ければ、彼は窓枠にもたれて外を見ていた。
「そういえば、強がりが得意だとか言ってましたっけ」
見開いた目が瞬きも忘れて彼を見ていた。外を見ていた視線を一瞬こちらによこした彼は、それから先ほどの穏やかさを投げ捨てて、ひどく冷たい双眸で睨みつける。
「シンが、貴女を許すというのならば、私はそれに従うまでです。ですが、貴女があの人を刺した事実を忘れませんし、なかったことにはさせません。……貴女は、この場所で、その事実を償ってください」
「……な、んで」
乾いた唇から血が滲む。含んだ水が、渇きを促す。張り裂けそうな喉から、笑えるくらい情けない声が出た。
「なんで、許さなくたっていいです、だから、私は」
「私が言うのも難ですが、海で溺れる貴女を見捨てなかったのも、こうしてここで働いていいといったのも、この場所で生きろといったのも、あの人ですよ。ずっと、私は反対していましたけれどね」
「…っ」
押し込む声が、喉から出かかってしまう。そう突き刺さる口調で言い放ったあとに、少しだけ笑ったジャーファルが、記憶に沈んでいたあの人を思い出せるのだ。
「……義をもって、」
「…?」
義をもって事を成せ、不義には罰を。
心臓が、今までで一番大きな悲鳴を上げた。この痛みが怖いから、とてもとても痛いから、なんともないような振りをして、思い出さないように笑っていたのに。すごくすごく、心臓が痛い。裂けて切れてしまうのではないかと思うたびに、か細い糸が縫い合わせていく。
帰れないとわかってはいても、あの世界が、あの居場所が、ただただ好きだったのだ。
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