シンドバッドが襲われたという事実を国民は知らない。王国内の武官でも、隊長とたまたま居合わせた隊士ほどしか経緯を伝えていない。それは結果的にシンドバッドが無事であったことやアル・サーメンが関わっていること、現時点で煌帝国が滞在していること等々理由はいくつかあるが、王がそう言うのであれば、不具合さえなければそれでいいのだろう。実際に、国民に事実がねじ曲がって伝わってしまった場合、滞在中の煌帝国の使節団になにか被害が出ればそれは国家間の問題につながる。一人一人が正しい事実を受け取ればなんら問題ないが、これだけ多くの人間が居れば絶対とは言えない。そして、その当人であるシンドバッドが彼女を赦すというのであればなおさらだ。
コンコン。
ノックをすれば内側から声が上がる。何となく違和感のあるそのやり取りを頭の隅に追いやり、ジャーファルはノブをひねり扉を開けた。
未だ彼女、ナマエは紫獅塔の一室にいる。シンドバッドが許した理由の一つに彼女が操られていたからというものがあるが、その反動で彼女の身体は満身創痍であった。考えてみれば当たり前で、人間の身体の限界を容易に超えて動き回っていたのだから、無傷で済んでいるはずがない。出血こそシンドバッドのおかげでないが、脱臼、筋断裂、腱の損傷、その他小さな怪我が重なり、歩くことも困難を極めている。動ける範囲が限られているので事情を知る八人将の多い紫獅塔で、そしてシンドバッドを再び襲うことのないよう監視を併せて部屋はそのままであった。
ナマエが目を覚ましてから三日ほどが経ち、王宮はいつも通りの日常を送っている。ジャーファルも執務に追われ、疲弊する政務官たちと多忙な日々を過ごしていた。そんな中であろうと、監視の任を請け負わされた身としては日に一度はこうして様子を見に来ることが義務付けられていた。ヤムライハたちがまだ彼女に会おうとしていないということは、誰だかもう覚えてはいないがそう聞いた。
「調子はどうですか」
「もう、大分よくなりましたよ」
そうですかと答えながら部屋を見渡して、何もないことを確認する。あるわけがない、と、最近はそう思えてきた。
「起き上がれるようになったんですね」
ベッドで上半身を持ち上げて壁に背を預ける幼い彼女を見やり、瞬きをした。
「右腕は、なんともありませんでしたから」
左腕の包帯の白さに比べて、右腕は肌の色が見え隠れしている。右手をぎこちなく開いては閉じてを繰り返すナマエは、歪な笑みを浮かべた。
「……そういえば左利きでしたね」
「元は、ですけど」
「程々にしないと右手も動かせなくなりますよ」
微妙な表情に気づかないふりをしながら、ベッド脇の机に広がる羽ペンと羊皮紙を見た。誰が持ってきてくれたのだろうか、黒秤塔の教書が一冊、広がっている。ジャーファルの視線に苦笑いをこぼした彼女はそっと教書を閉じ、目を伏せた。
――ヤムライハやピスティによれば、謝肉宴で彼女は年老いた女性に出会い、そこで髪留めを受け取ったようだ。その髪留めが今回の記憶と肉体の退行からシンドバッドの殺害未遂にまで至る原因というわけだが、その根源を切り離しても彼女の肉体は元に戻らなかった。記憶は幼くなってしまった時も含めてすべて思い出し、時折訪れるというドラコーンに事情を聞かれているという。
記憶と肉体の退化の魔法は同時に行われている。ヤムライハの見立てでは、その退化の魔法は髪留めに組み込まれ、何らかの外力――今回はヤムライハの防御魔法――の弾み、もしくは防御結界魔法を発動させる際の魔力の流用により、組み込まれていた魔法が作用したのではないか、というものだった。肉体のみ魔法の効果が切れないのは、きっかけとなった魔法が防御結界魔法であったために、退化の魔法に対して逆結界としてはたらいてしまい、そのせいで肉体が元に戻らないという状況になったのではないか。そしてそれならば結界魔法を解けばいいということらしいが、それもうまくできるかどうかは絶対ではないという。まるで最初の頃のように黒秤塔に篭ったヤムライハは、今も闇の金属器との解析も合わせて調べているのだろう。魔法には疎いジャーファルにはなんの助けも適わないが、幼いナマエの姿を見るたびに、どうにかならないものかと思わされるのだ。
「……ドラコーン将軍が、武官になれと仰ってくださったんです」
「――ええ、侍女との兼業は難しいだろうとのことだそうですね」
浮いた思考回路が彼女の声で呼び戻される。先日シンドバッドとドラコーンが何やらそんな話をしていたと頭の中で記憶を引っ張り出せば、ナマエは尚に目を伏せた。元々立っている彼から見ていたつむじが更に下がり、すっかり短くなった髪から項が見える。細い包帯の下に残っているであろう一文字の傷から、目をそらすことなどできなかった。左耳には、あの赤い光を放つピアスが留め具を残して外郭さえなくなっていた。
「…侍女の方が合っていましたか?」
「いえ、そういうわけではなくて」
恐らく、この煮え切らないような、ゆらゆらと覚束無いような、これが彼女の本当の中身なのかもしれない。彼女に会った瞬間感じた揺らぎを思い出す。あれは世界が違ったということに対しての動揺かと思っていたが、今思えばそれは彼女の素だったのではないだろうか。シャルルカンと剣を交えていた時はとても好戦的であっけらかんとした人物なのかと思っていたが、幼い頃の彼女をこうして見た後ではそれも強がりの一部であったのだろうかとも思えた。あれやこれやと考えられるほど多くを知っているわけではないが、知らないからこそどうにも余計にそんなことを考えていた。
――シンドバッドを狙う刺客であるという危機感が、薄らいでいるのは自覚していた。もとより確かに過剰なものであるという認識もあったが、理由もなく警戒心を解くわけにもいかないという思いがあったからで。もう随分と癒えた背中の痛みに、気にせずに両手を袖に突っ込んだ。彼女は下げていた頭をあげて、やはり歪んだ口元で笑みを模る。
「…私は、まだ皆さんに嘘を吐いているんです。…それはきっと不義にあたるんでしょう」
右手が震えていた。細めていた両目の奥に宿る青い瞳が、揺れている。
「……少しお時間を、頂いても?」
ナマエは、そう言って笑った。今までで一番、うまく笑えていなかったように思う。
ジャーファルは手近にあった椅子を引き、腰掛けた。そうすれば小さく安堵した彼女は、それから窓の向こうを見上げた。
幼い少女が、そこにいるばかりの風景が。真昼の穏やかさに不似合いなほど頼りなさげであった。
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