ジャーファルが彼女の部屋に、聞こえよく言えば見舞いに行ったと聞いて、彼は仕事を放り投げて紫獅塔へと来ていた。いつもは不定時にふらふらと紫獅塔へと寄るので大抵事後報告だが、何となく様子が気になったのだ。自負でもなんでもなくただの事実として、ジャーファルにとってシンドバッドは大切な一個人であるということは知っている。それだけ長く共にいたのだ。だからこそ、今回シンドバッドを刺し殺そうとしたナマエに対してどう接するのか興味があった。
世界が違うのだと言った彼女の話を、信じていたわけではない。だが、やはりそうだと思わざるを得ないのだろう。ならば尚更、誰に罪を問えというのだろうか。彼女はある意味、ただの純粋な被害者である。シンドバッドは紫獅塔の階段をゆっくりと上りながら、刺された胸を撫でる。心臓を一突きではなくてよかったと笑えば、八人将皆から非難がましい目で見られた。彼としてはよかったなという楽観的な感想ではなく、そうしたのは彼女の意思だったのではないかということが言いたかったのだが、残念ながら言葉を重ねる前に話は変わってしまった。うわ言のように、彼女はシンドバッドを襲いながら見ず知らずの名前を繰り返していた。シンドバッドとつぶやいていた恨み言は最初だけで、あとはただ悪夢にうなされているようだった。その名前すべてを覚えたわけではないが、どれか一つでもこの名前を出せばナマエはどんな顔をするのだろうか。――問うたところで、意味のなさなどわかりきっている。
我知らず足音を鳴らさないようにと歩いていた足が、ある一室の前で立ち止まった。そこには、仄かな褐色の肌に焦げ茶色の髪をもつ見慣れた姿があった。
「ロゼ」
ゆるりと振り返った彼女は少し目を見開いたあと、にこりと笑って頭を下げる。
「皆が困っているのではないですか、シン様」
「なに、少し抜けてくるだけさ」
ロゼはその言葉に困ったように眉尻を下げたあと、横目で扉の向こうを見た。
彼女は少し前までジャーファルの部下であった。文官として頭もよく、諜報としての腕もあった彼女とは建国当時からの付き合いだった。それから色々あってこうしてナマエの世話役として引き合わせたわけだが、最初はジャーファルが監視の目的で傍に置かせたのだ。――この事実を知るのはジャーファルとドラコーン、マスルールやヒナホホくらいなものだが。
「――私は、まだ皆さんに嘘を吐いているんです。…それはきっと不義にあたるんでしょう」
僅かに開いた扉から声が漏れる。ただ外で待っているだけかと思いきや、彼女も大概シンドバッドと似た考えらしい。くっと喉で笑えば、ロゼは満足気ににっこりと笑ってみせた。
「……私の父は、騎士団と呼ばれるここの武官の組織と似たような部隊の団長を勤めていました。ですから、必然的に私も十三の頃に騎士団に入りました」
ぽつりぽつりと、言葉を選びながら話している彼女は、そういえば最初の頃は商人の護衛をしていたなどと言っていたかもしれない。
「その頃に、あの魔導器をもらって…。それが父からの期待と思うと、すごく重たくて――。……一年ほどして、私は人魔戦争に参加しました。…丁度十年前の、この間までここにいたナマエは、その頃の私、ということになります」
「そんな小さい時から、戦争に」
「私は騎士でしたから、年齢も性別も、関係ありません。それに、人魔戦争なんて言ってはいますが…あれは戦争なんてものではありません。最初は、研究施設の防衛だったんですよ」
少しずつ声に張りがなくなってきて、言葉の間に空間が割り込む。自分の呼吸音が、ひどく大きく聞こえた。
「魔物との戦いで私が所属していたキャナリ小隊を含めて千程いた騎士が亡くなり、……私一人だけ、生き残ってしまったんです」
「……」
「……悪夢に、したくないと、私は言いました」
だから、どうか、そんな顔をしないでください。震えている声がそう告げるのだから、その言葉のなんと説得力のないことだろう。息を吸いこむ声が、泣くまいとあがいていた。
「それから、色々あって、いろんな場所へ旅をしていました。途中でユーリ……仲間に出会って、ずっと、旅をしながら、それで」
それで、と続かない言葉の接続詞があぶくのように浮いている。小さな嗚咽が、聞こえたような気がした。
「私は、あの世界で一度死んで、ここに来たのです」
ふらりと、徐に歩き始めたロゼを追うように部屋を後にした。日中ほとんど誰もいないせいか静かな紫獅塔の廊下を歩きながら、窓に面した回廊に出る。柱に寄りかかるように背を持たれれば、少し先を歩いていた彼女がくるりと振り返った。
「…ようやくと、私が申してもよろしいのでしょうか」
「過剰反応とは言わないさ。それが俺の傍に居続けたジャーファルたる所以だからな。…君は、いつから?」
ロゼは少し考えたふうを装って、回廊に張り出した手すりに手をかける。
「…置き手紙が読めないふりをするのは容易ですが、共に食べるご飯がまずくないということは、嘘ではないのでしょう」
「ははは! ロゼらしいよ。だが、それだけか?」
温かな日差しが肌を刺す。突き抜ける青さが目にしみる。シンドリアの空は、何度見てもそう思う。
「ルフ、でしょうか」
「彼女にはルフはないだろう?」
「ありません。まるで土塊の人形が話し、笑い、動いているように見えてしまいます。最初こそ目の行き場に困りましたが、伽藍洞だからといって、本当に何もないわけではないのですね。それは魔導士にはない目です」
「……ここでいうのもなんだが、ルフがないこと、報告してこなかったな?」
なんのことでしょう、と笑ってごまかすのは彼女が忘れていた時の癖である。はあと思わず漏れたため息をロゼがお年ですかなどと茶化してくるものだから、張っていた気が一息でたわんだ。義務として押し付けていたわけではないので咎めるなどしないが、今後はどうしたものかと空笑いがこぼれた。
「まあ、見えないからこそ、か」
彼女と同じように手すりに手を添える。彼の目には、突き抜ける青ばかりが映る。この景色さえ、彼女とは全く違うのだろう。その別の視界を羨んだことはない。光るルフの眩しさに目が眩むのだといつだったかに笑っていたロゼのもつ瞳は、彼女だけのものだ。
「シン様がお仕事に戻られますように、私は失礼します」
「ああ、俺もすぐにもどるさ」
くすくすと笑ったロゼの背を見送り、拳を固める。
――帰りたいとは泣かなかった。あくまでこの場所にいてもいいのかと泣いたのだ。死という感覚が意識の奥深くに確かに存在しているから、そう言わなかったのだろう。
ならば、この世界は彼女にとって、なんなのだろうか。
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