灰色の染みがじわりじわりと楕円に広がる。ぱたぱたとかすかに音を立てて増えるそれを視界に映しながら、頭の中で言葉を探す。やけに静かな空間が、質量を伴って喉を塞いでいくように、息が詰まった。
人は死ぬとどこにいくのだろうと、遠いいつの日かに思ったことがある。この世界はルフというものが人の内側に確かに存在していて、魔導士でなければルフを目にすることはない。人が死ぬとき、その内側にあるものが世界の流れの一部になるのだと、たしかそう聞いたことがある。バルバットでアラジンが見せたあの不思議な魔法のように、世界へと帰っていくのだと。
ならば、彼女はなんなのだろう。
異世界から落ちてきたと話した彼女は、そういえば、帰りたいとは言わなかった。嫌われてしまったのだろうと、あの時笑っていたのは、今思えばそういうことだったのかもしれない。死んだという認識が覆る。しかもそこは別世界であるというのだから、非現実的であろうとこの世ならざる誰かの嫌悪と思いたくもなるのだろう。
彼女にとって、この世界は苦痛でしかない。きっと。
それでよく今までなんともないような振りをして笑っていられた。気が狂れたっておかしくはないというのに、彼女はいつだって笑みを浮かべていたのだ。
――ルフは生命の源であるとヤムライハは言った。異世界から来たからではなく、異世界で死んだからルフはないのだと、そう思えば尚更信じざるを得なかった。いや、最早疑うということなど、するりと頭の芯から抜け落ちていたのだ。
無意識に伸ばした右手が空を切る。俯く彼女の手前で甲を翻し、豆で硬くなった彼自身の手を見やる。これこそ、無意味だ。償えと彼女に一方的に告げるのであれば、巡り巡ってくるものがあると、わかっている。
コン、コン。
ためらいがちに二度、音が響く。思わず目に見えるほど震えた手を握り締めて、開く気配のないノブを捻る。わずかに開けた隙間から覗けば、驚くように見開かれた双眸がこちらを見上げていた。翡翠の瞳が数度まぶたに覆われてから、ナマエは、とか細げに声が紡がれる。その声に反応したのは、ジャーファルではなくナマエが先だった。
「ヤムライハ……?」
振り返れば、こちらも似たような表情を浮かべていた。彼は扉を大きく開けて彼女を迎え、なんとなく廊下に顔を出す。扉の右側を見やれば、廊下の壁にピスティとシャルルカンが背をもたれて待っていた。互いに目が合って数秒、ぎこちないこの空気をなんというのか測りかね、それは室内の二人も同じであった。どうぞ、とピスティたちを呼べばあははと珍しく苦笑いを浮かべてそろりと扉の隙間から身を滑り込ませた。
調子はどうかと眉尻を下げて問いかけたヤムライハに、幼い少女が先ほど浮かべていた涙の痕もわからないほどの笑みを浮かべた。それからナマエは眉根を寄せて、布団に置いた手を握り締めて頭を下げる。出てきた言葉は、目が覚めたあの時と変わらない台詞だ。ご迷惑をおかけして、と言葉を転がすたびに思い出しているのか、次第にほんの少し震え始める声音が三人の表情を歪めさせる。
大丈夫と、あっけらかんと言ってしまうことはできないと皆わかっている。例えここにジャーファルがいなくとも、すぐに以前のような和気あいあいと朗らかな笑みを浮かべることは無理な話だろう。事の顛末を知った上で、微妙な距離感覚を測り損ねている。言いよどむ口元も、上がらない頭も、ふらつく視線も、だからといって疎んでいるからではないのだと、彼らの輪からしたら第三者である彼はそう思う。
こつりと、ヤムライハが一歩ベッドに歩み寄る。ぴくりと震えたナマエの手に、そうっと触れて、視線を落とす。
「傷は、辛くない……?」
まだ、頭は上がらない。
「もう、辛くは、ない……?」
人魔戦争に参加していた頃の自分自身だったと、たった少し前に話していた彼女は苦渋に顔を歪めていた。悪夢にしたくはないと言っていたのは、それ以降に出会った仲間のおかげだと言っていたのも覚えている。それでも、過去の記憶は痛むのだ。傷など疾うに癒えて跡形もないというのに、傷ではないどこかが、ひどく痛むのだ。まるで抉るように鋭く殴るように鈍く痛むそれは、いうなれば心なのだろう。心臓の裏側で存在する明確な痛みは、どれだけ経っても、どれだけ大丈夫だと思っていても、唐突にやってくる。
傾く太陽が二人を差す。深海のような髪だと思った。浅瀬の海のような髪だと思った。
「……、大丈夫。もう、大丈夫」
柔らかな声が、ゆらゆらとたゆたっていた。
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