ぽつりぽつりと浮かぶ言葉が増えてきた頃に、シャルルカンが抱えていた凡そ二メートル四方の紙をベッド脇に広げた。そこには赤いチョークで魔法陣が描かれており、それが何をあらわすのか分からずとも、彼女の肉体を元に戻すものなのだろうと検討がついた。


「ナマエが眠っている間に少し状態を見させてもらったのだけれど、やっぱりあなたの体には私の作った防御結界魔法が作用しているみたい。だから、まず私の魔法を解く。記憶が元に戻ってるってことは肉体もそのまま元に戻るはずだから、結界魔法が解ければ、」


ふいに言葉を詰まらせたヤムライハに全員が首をかしげ、言葉の続きを待つ。両手に握る杖の先が、紙を床に留めた。


「…その魔法は本来人間の身体に合わせたものじゃないの。……ナマエはルフがないから、今までなんともなかったけど、だから、きっとすごく身体に負荷がかかるわ」
「――ヤム」


ナマエの指先がヤムライハのほうへ伸ばされる。控えめに弧を描いた唇が言葉を一度飲み込むように閉じられる。


「……また、ろくに寝ないで、ずっと考えてくれていたんでしょう? ありがとう、本当に、ごめんね、ヤムライハ」


ごめんなさい、と続く声に首を緩く振ったヤムライハは、ぎゅうと伸ばされた手を握って、絶対元に戻るからと笑ってみせた。


「最初に、この中心に座ってほしいんだけど、動ける?」


ベッドのすぐ下とは言え、未だ下半身がろくに動かせない彼女には難しい動作である。彼女も自身で動きたいのは山々なのだがと暗に告げる表情に、ヤムライハが戸惑った。一瞬の間の後、ジャーファルは人知れず息を吐いてから、ベッド脇に歩み寄る。そうしなければならないのであれば、致し方ない。失礼しますと一応声をかけてから、ひょいとナマエを横抱きして持ち上げた。主に向けられるピスティの視線だけは頂けないが、魔法が解けないのでは話にならない。は、と短い困惑の声が近くであがる。とすと魔法陣の中心で彼女をおろし、ヤムライハを見上げた。少しばかり強ばった表情に、シャルルカンが肩をぽんと叩いて背を押す。深く息を吸って吐いた音が、どくりと心臓を脈打たせる。
――最悪の結果は聞かなかったが、もしこれが成功しなかったら。彼女は一体どうなるのだろう。
離れていてとヤムライハの尖った声に二人から距離を置く。王宮の外から聞こえる人の笑い声や鳥の鳴き声のちぐはぐさを笑うには、誰もそんな余裕は持ち合わせていなかった。


「――いくわよ、」
「うん」


その声を合図に、彼女は杖を真横に振った。瞬間、眩しいほどの光が室内に溢れ、思わず腕でひさしを作って片目をつむる。光は強弱をつけながら波のように揺らぎ、ナマエの身体を光の筋が貫いていた。


「ナマエ、!?」


眩しさに呆けて間もなく、ピスティの声が弾ける。明るさに慣れ始めた両目が、胸を押さえるようにしてうずくまる彼女を捉えた。苦悶に喘ぐ声を噛み殺して、不規則な呼吸を繰り返す。ぼこりと、ナマエの目の淵から黒い液体がこぼれた。まるで涙のように、色のついた筋が頬を伝って紙に落ちる。出来るはずの黒い染みは、生き物のように蠢き、描かれている魔法陣の線をなぞるように黒く染めていく。じわりじわりと赤い線を黒く塗り替えるたびに、ナマエは背を丸めた。パキンと、なにかが割れる音がした。


「…っ、」


ヤムライハが目に見えない命令式の羅列を指で追っていくたびに、パキ、パキと小枝を踏むような音が反響する。どこから、と音を辿るように天井を見上げれば、光る鳥を見た。一羽だけではない。二羽、三羽、それから数十羽と、見えるはずのないルフが視界を覆っていく。隣を見やればピスティやシャルルカンも同じようで、開いた口を塞ぐことも忘れて見上げていた。
魔法陣を中心にはばたく鳥の群れはなにか形を作りかけているように、不安定な動きを繰り返している。まばゆいほどの光が網膜を刺激するほど、その先で誰かの記憶の断面を見る。ジャーファルの身をすり抜けていくルフに触れれば、懐かしい景色を見た。


「……っ」


うずくまるナマエから声が聞こえた。視線を下ろせば、彼女はルフたちを見上げて、黒く"滲む"液体をぼろぼろと流し続けている。小隊長と、聞こえた気がした。
――それは、瞬きをしている間だったのか、それとも目が眩んだからなのか、気が付けば、ルフの大群は見えなくなっていた。収束していく光の中心は太陽を直視しているように相変わらず眩しく、根拠もなく、あれがこの世界の大いなる流れの一部なのだろうと思った。
松明の灯りが消える瞬間のように、明るすぎた視界から順応できずに真白く霞む視界の先で、人影が倒れこむ。何度目かの瞬きをしたあと、星屑が陽光に反射する部屋の中で違和に気づく。ヤムライハに肩を支えられながら、見慣れた顔が歪んだ笑みを模った。


「おかえり、ナマエ」
「……ただ、いま」


ただいま、ヤム。
黒い涙のあともなく、それなのに止まらない透明なそれらは、足元に広がる紙に灰色の染みを点々と残していた。


- 89 -
BACK TOP