太陽が西に傾き、窓から差し込む直射が眩しくて目を細める。彼の白い官服が橙に染め上げられ、そばかすの散った頬に赤くまっすぐ引かれた唇から溜息がこぼれた。「如何なさいましたか?」と書類を手渡しにきた文官が首を傾げて問うものだから、彼は少しだけ苦い笑みを浮かべて首を横に振った。仕事中だというのに、惚けてしまうなんて。それも他の者に気取られてしまうほど。
彼は少し席を外す旨を文官達に伝え、執務室を後にした。一通り本日付の書類に目を通して、割合今は時間が余っている。三日三晩寝ずに徹夜をしたおかげで仕事に片が付いたはいいものの、頭は重く慢性的になりつつある眼精疲労により肩が凝っていた。こんなものはいつものことだが、彼の頭をひたすらに重くさせているいつもと違う状況がここシンドリアの王宮にあった。
「ジャーファルさん。お仕事お疲れさまです」
箒と雑巾とバケツを抱え、彼女は振り返る。彼は隣に立つ彼女の世話役が頭を下げるのに柔らかく応えてから、にこにことする彼女を一瞥した。その視線が無意識に冷ややかなものとなってしまったのは言うまでもなく、これもやはり無意識に袖の中で眷属器に指を滑らせていた。
「よもや王宮内で貴女の姿を見かけるようになるとは……はあ」
「シンさんや皆さんには恩義がありますから」
困ったように眉尻を下げて微笑む彼女に、ジャーファルはありふれた建前の言葉を残し通り過ぎる。後ろで「はい、頑張ります」とおそらく笑いながら言ったであろうその声を聞きながら、小さく溜息を吐いた。
どうして彼女がさも侍女のような仕事をしているかというと、それは三日前に遡る。
「――それでは、貴女は何故、あんな何もないところに?」
「落ちました。それだけは確かです」
「どこから?」
「さあ、天国か地獄か雲の上か――って、そんな怖い顔しないで下さい」
ころころと笑いながらそんな冗談を話す彼女、ナマエは、そしてすっと真面目な顔をしてゆっくりと天井を指差した。彼も釣られて視線だけ見上げてみるも、そこにはただの天井しか広がっていない。もう一度彼女に視線を戻したとき、立てていた人差し指を柔く握り眉尻を下げて笑った。
「きっと、罰が当たったんだと思います。神様とか、そういったものは毛頭信じていませんでしたけど。今ならなんとなく、しかめっ面して睨みつけられているような気がします」
嘘は、吐いていない。それは人間の第六感とよぶべきものに相当するものだが、間違いなく己の感性だけは正しいと自負できた。良くも悪くもそれほどの経験があると思っていて、何より目の前のこの人物は、酷く揺らいでいるように思えたからだ。
彼女の持ち物である黒の見たことのない――足元の広がりから煌のものかと思ったが違うようだ――上着を返した際も、このペンダントを見せた時も。それは執着のような、僅かな違和感をもって揺らいでいた。揺らぎ、という表現が適切かどうかはわからないが、少なくとも今はそれ以外の言葉が見当たらなかった。確かに、周りは敵だらけのこの状況で自らの物を差し出されれば安心するのもわかる。けれど、そんな程度のものではないような、気がしてならないのだ。
「……一切の虚偽なく明確にと、言ったはずですが」
「そうですね。私も嘘偽りなく、お答え致しましょうと、言いました」
やや疲れた笑みで返されれば、頭のどこかでぴしゃりと冷水を浴びせられたような感覚を覚えた。この部屋に入った時から、あるいは記憶喪失であるかのような虚言を呈した時から、彼女は気張っていた。ジャーファルが言葉を選ぶように、彼女も間違いなく当たり障りなく話を逸らせようと言葉を考えている。この違和感の正体を計りかねている。
「明確に、というのは案外難しいですよね。私にとっても今何が明らかであってどれが夢なのかも、よくわかっていないんです」
「……質問から遠のくほど、ご自身の首を絞めていることに変わりはありません」
「理解してます。もう十分、息苦しいですし」
あなたの殺気のせいで。そう言って目を瞑るナマエは、やはり笑っていた。笑うことで、おそらく心のうちに抱えた何かを守っている。彼はわずかに目を細め、瞬きを一つした。
追い詰めているという自覚はある。これでも人並みの良心といった類の感覚は持ち合わせているつもりだ。それでも、聞きたいことは山ほどあるのだ。
「落ちる前はどこに?」
「……」
「答えられない理由でも?」
出自を問えば押し黙った彼女に矢継ぎ早に質問を投げかける。名前以外に一切を明かしていなければ、当初記憶喪失の振りをしていたことを考えるに、どうにも自身について隠したがっているように思えてならない。彼が紛れもない疑いの目を向けていることは明らかなのだから、出自を割って話したほうが得であることなど容易に想像できるだろうに。
唇をもごもごと動かすナマエは暫く無言を貫くと、漸くぽつりとつぶやいた。
「……小さいころから商人や町の人たちの護衛をしながら、最近は仲間と旅をしていました。海に落ちた前後の記憶は――……あまり、覚えていません」
長い髪が肩を流れ、彼女はそれを左耳にかけた。赤い輝きを放つ耳の飾りは、ただの商人の護衛をしているだけの女性がもつには些か不自然すぎる。
ジャーファルは瞬きをひとつして目を細めた。
「では、その旅仲間はどこに?」
「……海に落ちてから、それももう分かりません。何処にいるのかも、もう……」
「そうか、仲間とはぐれてしまったのか! それはとても心細かっただろうな――」
うんうん、と頷きさわやかに微笑んでみせた男はいつの間にかナマエのベッドに腰を掛け、あろうことか彼女の手を取っている。あまりの突然すぎる登場と言動とにぴくりとも動かなくなった彼女は、ぎこちない動きでジャーファルを見た。彼はその視線に気づきながらも、一瞬にしてこの男に吐き捨ててやりたい罵詈雑言その他の言葉が脳内を駆け巡り、ぴきりと頬に青筋が立った。
「その傷が癒え旅仲間が見つかるまで、好きなだけこの国にいるといい」
――怒りと呆れを通り越し、最早これはなんと分類していいのか見当もつかないほど渦巻いた感情が湧き上がる。いつもいつも物事の先を読み、あらゆる手段を考えている彼の苦労など知ったことではないと彼は軽々と踏みつけて、無謀な発言ばかりを繰り返すのだ。
わなわなと震えるジャーファルの肩を、彼は事もなげにぽんぽんと叩いて楽しげに笑ってみせた。
「こんなかわいらしいお嬢さんを、しかも相当な手傷を負っているというのに道端に放り出すのは人として道義に反するだろう、なあジャーファル?」
「――っ! あんたはいつもいつもいつも! そうやって何馬鹿なこと抜かしてんですか!! 何のために私が溜まった仕事を後回しに今ここで話していると……!!?」
「何、人を信じることも大切だぞ」
ははは、と笑う彼の胸ぐらを掴みかかりそうになる自分をなんとか制し、話に全くついてこられずに困惑し黙り込むナマエをぎろりと勢い睨みつけてしまった。
彼女の深い青の瞳が零れ落ちそうなほど見開き、未だ握られたその手を振り払えずに言葉にならない声をもらしている。
「えっあ、え、いや……あの、すぐにでも出ていきますから! これ以上ご迷惑は……!」
「だがその傷では海を越えることもままならないだろう?」
「――傷なら、大丈夫です」
一呼吸間をおいて告げられたその言葉に、熱くなった頭がじわりと冷えていく。
彼女は握られていた手をやんわりと解き、そのまま腹部に掲げた。ぼそぼそと何かを呟くその声に呼応して手のひらが仄かに光を帯び、ふっと陣のようなものが浮かび上がった。その眩しさに目を細め呆けていると、ナマエは躊躇いもせずに服をめくりあげ薄らと赤の染みた包帯を外していく。何を、と言葉にできたかも怪しい音を吐き、目を瞬かせた。鳩尾あたりまでめくられ晒された肌にあるのは未だ荒い傷跡ではあったが、皮膚はピッタリとくっつき合っており、もう血が滲むこともないだろう。
昨日一昨日の傷口を知っているからこそ、この変化はなかなかに大きい。ヤムライハには劣るが、治癒魔法が使える人間は多い方がいい――ことは、まあ確かに理解はできる、が。
「治癒魔法が使えるのか!」
「たかが下級魔術ですので、表面を取り繕う程度にすぎませんが……」
すぐにでも出ていくからと笑う彼女に、シンドバッドの表情が僅かに変わるのがなんとなくわかった。
治癒魔法が使えること自体は魅力的だが、何せ身元も目的も不明である彼女を置いておけるわけがない。できればこのまま何事もなく去ってくれることのほうが無駄な対応を考えずに済む。
ただ、突飛な行動が好きな彼のことを失念していた。
「多少なりと治癒魔法が使えることは、この国にとっては有難い。君が良ければ好きなだけいてくれ」
「――え?」
「――は?」
図らずも重なった声は戸惑っていたというのに、彼は何ら気にする素振りも見せず微笑んだ。
「ああ、自己紹介が遅れたな。俺はシンドバッド」
「へ? あ、ナマエと申します……?」
「そうか、ナマエは聞けば護衛を生業に旅をしていたみたいだし、当然腕にも自信があるんだろう?」
「ちょっと、シン何言って……!」
まあまあと彼、シンドバッドは宥めるように手を振り、もう一度彼女に向き直った。――もう、これ以上何を言っても無駄である。一度決めてしまえば梃子でも動かないのがこのシンドバッドだ。
ジャーファルは早々に諦めて、ならばこうして、と彼女に対するあらゆる策を考えておくことにした。
「君にとって悪い話ではないはずだ。どうだろう?」
「ど、どうってそんな簡単な……」
「簡単なことさ。なんたって俺がこの国の王だからな」
溜息ばかりがもれる。口をぽかんと開けたまま固まった彼女にジャーファルは少しだけ同情した。
「……は、い?」
くらりとした眩暈は今までとこれからの疲労を考えてしまったからで、もうこの結末は変わらないのであれば早く仕事に戻りたい。
全く以てこの王は自由奔放で我が道を走り抜け、どこまでも人を困らせるのが好きな人種のようだ。
ちらりと扉のほうを見やればいかにも眠たげな表情を浮かべているマスルールが顔を上げ、なんともけだるげな目を向けられた。見張りはどうしたんだと目で訴えれば「はあ、」などと生返事の後にシンドバッドを指差したので、すべての元凶に明日ある限りの仕事を突き出してやろうと決意したのだった。
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