シンドバッドが訪れたあの日から二度目の朝を迎えた。鋭い日差しは昨日より穏やかで、遠くに見える黒ずんだ雲が雨の予兆を告げている。彼女はベッドから素足のまま冷ややかな床に足を下ろし、窓際に近づいた。
『君にとってこの世界はどんな価値があるだろう』
彼はそう問いかけた。帰る術を探し、そして帰るべきだとも言った。その言葉に答えあぐねて黙り込んだナマエに微笑んだシンドバッドは、答えが出たら教えてほしいと話して去って行ったのだ。
この世界で生きる価値。戻りたい世界。我知らず握り締めていた拳を緩め、曇り空を見上げた。
――代わりではないのだ。そう、彼は暗に言っていたのかもしれない。この世界――国――にとって大切なシンドバッドを守ることで、ここに在ろうとした。ジャーファルの言葉は確かに、ナマエという薄ぼんやりとした存在をここにつなぎとめている。それだけを目的にいれば、ここにはいられる。けれど、きっとそこに意味などないのだ。彼女にとってこの世界は居場所ではなくただ無防備に伸ばされた枝にすぎないのだから。
「……戻れるわけが、ない」
もう一度海にでも落ちれば、あるいは戻れるのだろうか。せき止められる呼吸に喘ぎ、身動きができずに押しつぶされる水圧、吸い込む海水、足元にうごめく獰猛な瞳。それらが待ち受けると知りながら、再び飛び込む勇気はなかった。戻れたとしても、この体は既に死んだもののはずだ。帰れたところで、どうなるというのだろう。
死んだほうがましだったと思っていたのに、こんな形であれ生きながらえていた事実は死という感覚を遠ざけてしまった。
「帰りたい、帰りたい、かえ、りたい」
みんなのもとに。
空を背に、壁にずるずるともたれかかりながらしゃがみこむ。ようやく繋がりかけた足首の腱が痛む。
――父を、アレクセイを、恨んでいる。皆が恨んでいる。だからこそ、ユーリはあの場で彼に剣を振り上げたのだ。それを庇ったのは、紛れもないナマエ自身の意思だ。輝いていたあの人の背が好きだった。騎士団を束ね、多くの人民を思い、国のあり方を憂い、そして変えようと勇んでいたあの背が。人魔戦争を機に変わってしまっても、関係性は変わることなどなく、日に日に腐っていく父をどうしていいかもわからず見捨てたというのに。それなのにも関わらず、最期にユーリの剣から庇ってしまったのだ。
シンドバッドを刺し貫いた両手を掲げる。奥に見えるのは先日シンドバッドが置いていった彼女の長剣だ。――剣を握るのが、怖い。動き笑うシンドバッドを見ても、脳裏に蘇るのは瞳を固く閉じた彼だ。その恐怖を、ユーリに背負わせてしまったのだ。誰もが恨む人を庇って。血飛沫が舞う向こう側で見た彼の顔を忘れるにはあまりに苦しい。
――帰りたい。
伽藍洞の言葉を呟く。何度も、何度も、何度も。
思考を巡らせるたび、愛おしいほどの価値が見えなくなっていた。
積み上がった白い箱を橙に染める夕日が歪む。朝方の雲は雫を降らすこともなく通り過ぎていた。
大鐘の音も意識を揺らさぬほどただぼうっと豪奢な部屋で自分の伸びる影を眺めていた。それではあの小さな自分と何一つ変わらない。動ける足はあるのだから、なにかひとつだけでも進まなければ。そうは思えるのに塞ぎ込む意識は息を詰まらせる。ただ引きずるように部屋を出て、目的もなくふらついた。正常な思考を繋ぎとめようとする痛みが、今だけは少しありがたい。
こつり、こつりとブーツの踵を響かせながら進める歩みは重々しく、そうしてたどり着いたのは銀蠍塔だった。階段を一段一段昇っていく。その度に、彼女には剣しかないのだと自覚する。強くなるために剣を振るっていた。強くなれば力なき人を守れると説いた父の教えに従って、我武者羅に、女であることを馬鹿にされないほど強く。騎士団を辞めたあとも、腐る父を見ても、それだけはずっと思っていたことだった。
「……ナマエ?」
夕食時のせいか人気のない銀蠍塔の屋上は夕日が尚更鮮やかで、白い柱や屋根に反射するそれらが一際眩しかった。そんな中に、人影を見る。彼はジャラジャラと金属音をかすれさせながら振り回していた剣を地面に突いて、こちらに向き直った。こめかみを伝った汗が光を吸い込みながら落ちるのが見える。バツの悪い表情をこぼして項を掻き毟ると、すらりとした細身の刀身を鞘に納めた。
「……シャル、が、いるとは思わなかったな」
「俺だってたまたまだよ。なんだって今日に限って来ちまうんだ。つか怪我はどうした?」
もう大丈夫と断言するには動けば足を引きずってしまうので、入口から動けずにいた。それに気づいたシャルルカンが平らなサンダルの独特の足音を鳴らしながら近づいて、話すには少しばかり遠い位置に立ち止まる。
もうすぐ、昏い夜が来る。
「……ケガが治ってりゃ久しぶりに手合わせしたのによォ」
微妙な沈黙に上ずったような声が響く。ごめんと浮いた謝罪のあとに視線が下がる。もう一度、剣をとって部隊に戻れるのだろうか。今はその鋭利さに目も当てられないというのに。
シャルルカンは奇妙なうめき声をあげ、そしてずかずかと乱暴に歩み寄ってくるとこれまた力任せに頭を掻きなでた。突然の衝撃に見開いた目のまま見上げれば、眉間に皺を寄せて細める双眸と視線が合う。
「王様は、生きてるんだからいいって言ってただろ」
「……はい」
「俺はお前の事情何ざしらねえけど、あの人がそういうの全部ひっくるめてそういったんならそれでいいんだよ。ここにいる連中は大概そうだし、だからこそ皆王様について行くんだ。だから、皆この国を守ってんだ」
唇を尖らせて声を荒げる彼はぎこちなく目線をずらしながら言い放つ。
「だから、お前は早く怪我治して部隊に戻ればいいんだよ!」
捨て台詞に近いような形で最後にそう言うと、飯食ってくると出ていった彼の背を見えなくなるまで見つめていた。
シンドバッドに告げた自身の言葉を振り返る。何一つ返せてないのだと言った言葉は本心からだ。世界の代わりでもなく、ただシンドバッドたちに救われた事実がある限り、それは彼女がここで剣を振るわなくてはならない理由になる。ジャーファルの言葉でもなく、誰からの意思でもない。やりたい、為したいことはただ、彼らに恩返しがしたい。ただそれだけなのだ。
息を吸い込む。色濃い頭上の海を見る。
「価値なんて、後からついてるだけだ」
自分で決めて、自分で進む。それを許されたのなら、取るべき道はひとつしかない。
――難しいことはみんなで、選んだあとに考えりゃいいさ。そういえば、いつも彼はそんなふうに笑っていた。帰れる帰れないとそんな不確実なことに悩んでいてもそれに答えなど出るはずもない。この体が息を止めて苦しいのなら生きている証拠だ。痛むのなら感覚のある証拠だ。
「今の私に、できること――」
あの世界で見つからなかった答えを、この世界で見つけられるなら。ここに落ちた理由がようやくわかるのだ。
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