夕食を終えた少し後、空はおおよそ暗色に覆われ、港を中心に橙色が波のように揺れる明暗をつけて広がっている。そんな城下を見下ろしながら、ジャーファルには内緒でひとり晩酌をしていたときのことだった。にわかに廊下が騒がしい。男二人の声がもうひとつの小さな声をなだめているようにも聞こえなくもない。ことりと静かにグラスをテーブルに置き、聞き耳を立てながら扉に近寄ってみること数歩。小さな声が女のものだとわかった。
「――だめでしょうか」
「――また明日の明るい時に――」
きぃ、と蝶番が軋む音は存外大きく響いてしまった。それに気づいた門番ふたりが振り返り、焦りに似た顔を浮かべて頭を下げる。彼らの奥には、やはり見慣れた彼女の姿があった。
「シンドバッド王、お騒がせを」
「こんな時間に、どうしたんだ?」
彼女はランプの灯りに照らされて染まる赤い頬を引き締めて、鋭い眼差しでシンドバッドを見上げた。
「シンドバッド様、お話したいことがあるのです」
「――成る程、意外と君は直情的なんだな」
「シンドバッド王よ、」
「俺は構わんさ。少し、場所を移そうか」
戸惑う彼らに引き続き役目を全うすることを告げ、彼は強ばった表情のままのナマエを連れて外廊下へと歩き始めた。
先日のこともあって、私室に呼ぶには些か無用心であるし、彼女に対してもそれは無遠慮であるだろう。月明かりだけが異様に眩しい廊下を進みながら、何度目かの柱の影を踏んだところで振り返る。青白さに浮かぶ彼女の瞳が、月の光を浴びては水面のようにさざめく。その小さな唇が、剥き出しの言葉をとらえた。
「――この世界に見知った人も何もないと思うと、どうしても、切なくなってしまうんです。だからこそ見えないふりをしていました。比べることもやめて、ここに馴染んできていると思い込んで、ここで新しい目的を探して……。でも、やっぱりここは、私の知っている場所じゃない。小さい私が見たこの世界は、ここに来たばかりの私と同じです。だから、また振り出しに戻ってしまいました」
随分と短くなった髪が、緩やかな風に遊ばれて首筋を晒す。首に巻かれた白い包帯に添えられる指先の白さが、それと同化して薄ぼけてしまった。
「帰れるなら、帰りたい。私が……生きる、場所は、ここではありません」
それでも。
少しばかり大きな声が、自分の声をかき消すように弾ける。いびつに笑みを浮かべてみせたナマエは、星が瞬く空を見上げてから、シンドバッドを映した。
「まだ、何もしていません」
「何も、とは?」
彼女の意思を知った上で問いかける言葉の返答は、もう既に彼の中にもあった。それに反することなく、彼女は双眸を細めて声の調子を落とした。
「盾になると言いました。それは、死に急いでいるからではありません。……私はシンさんや皆さんに返しきれないほどの恩があります。私が唯一誇れることは、やはり剣しかありませんでしたから、」
ごくりと飲み込んだ生唾の味を、彼女はどう感じたのだろう。風に遊ばれるたびに左耳が顔を出し、そこに以前の煌きがないことを知る。――ジャーファルに話していた、父からの贈り物なのだと苦笑した声が脳裏をよぎった。それは、ナマエとあちらの世界をつなぎ止めて確かなものにしていた絶対の物であったのだろうに。
それでも彼女は、幼い頃のように嘆くでもなくシンドバッドの目を見つめ返している。
「もう一度私を、武官としてここに置いてはくれませんでしょうか。帰る手立てはありません。でも、ここがあちらの代わりにはならないように、私にとってシンドリアもみなさんも、大切なのです。少しでも皆さんの役に立ちたいと思うのは……私も、ここが好きになってしまったから、だから、帰る方法を探しながらでも、力になりたい」
価値はあるのかと問うた。守るべき相手をシンドリアと見据えて剣を振るうと言ったことは諦めてしまった自分のためではないのかと、頭のどこかでそう思ったからだ。じくりと傷もないのに胸が痛む。彼女の瞳があまりに今の自分にとってかけ離れたものであるとわかったからこそ――それはある種、アリババ達に向ける視線と同じだろう。
あちらの世界で死んだのだと言った声に押しつぶされてしまうくらいならば。今の彼女は、こうしてこんな場所で、シンドバッドを見上げてはいない。
あくまで、彼女はその事実を自分には告げないようにしているが。
くっと喉で笑う。頑なに彼女を猜疑していた彼の姿が思い浮かんだ。
「もう一度聞いていいかな」
「はい」
「――この場所は、君にとってどんな価値があるだろう」
この時網膜を刺す光の粒が、恐らくヤムライハならば見えたのかもしれない。彼女はもとよりそんなものを持ってはいないけれど。
「いつかの私が、知っています。きっと」
ふふと小さく笑った声が、夜に吸い込まれた。
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