ベッドから起き上がった体は軽い。癖で髪をまとめたがる腕を下ろし、適当に指で梳いて整えてから窓際に近づく。伸びをした手足は痛みもなく、肺を満たす空気が柔らかい。
今日まで体の様子を見て、調子が良ければ明日から再び部隊に戻ることになった。体力は落ちてはいるが、武官の一日の日程の中に訓練は午前と午後の二部制で組まれているのでまた徐々に体を慣らせば良いとドラコーン将軍につい昨日恐らく笑われた。表情を知るには時間が短い。十三隊とロゼには病気と伝えてあるという気遣いが、今は少しの罪悪感になっている。先日のことは、上位の隊長と鉢合わせた隊員しか知らないということなので、ナマエを見る目は厳しいものになるだろうがとシンドバッドの苦笑いもそれに積み重なる。一体どれだけのものをどれほど返せば等価になるのかさえわからない。
ぼんやりと瞬きもせずに空を眺めていれば、乾いた瞳が青を褪せさせる。仄かに赤みを帯びた空を見て、不意に彼女を思い出した。
赤い長髪を靡かせ、まるで水のように流れる体さばきは今まで相対した人間の中で初めて綺麗だと思った。自分だけが悲劇の対象であるという目をただ自分だけに向けていた少女の声を鋭く砕いたのは、彼女――紅玉が初めてだった。
つい、とベッド脇のチェストにかかる長剣を見やる。足音を殺すようにじりじりと歩み寄って、微かに震える右手で鞘を握った。ひんやりと冷たい。どこまでも、柔らかな温もりとは程遠い。するりと手からこぼれた剣が床を叩き、乾いた音が響いた。手のひらを湿らせるものは、ただの汗であると言い聞かせて剣を壁際に置き、漏れそうになったため息を噛み殺して部屋を後にした。



アリババたちがここを出て行くと聞いたのは昨日のことだ。ドラコーン将軍と入れ違ったピスティがそう教えてくれた。いつ出て行くのかと聞けば明確な日にちはわからなかったが直にと言った。
――馴染んできていると思った。戻ることなどと諦めていたからこそ、最初は自分とこの世界にある境界を薄めようとしていた。小さくなって見た世界の中にいた彼らとにあった隔たりは、薄めるものではなく理解するもので、少なくとも諦めてしまうことではない。
心なしか騒がしい廊下を歩きまわり、無意識か意識かわからないところで彼らを探していた。中庭を通り過ぎ、食堂にふらりと立ち寄り、緑射塔の前を素通りして銀蠍塔に向かう。銀蠍塔に行けば誰かに会えることのほうが多い。あの場には、何か不思議な磁場があるのかもしれない。そんなふうに考えられるほど、今日も今日とてそこには誰かがいた。正確には、銀蠍塔の最上階にある鍛錬場へと向かう途中で、だが。


「紅玉さん」
「貴女は――」


階段の踊り場でナマエが見上げる形となって紅玉を見つけた。以前彼女の傍にいた付き人はおらず、振り向きざまに何かを服の側面に隠すように手をやって、それから笑みと訝しみとが綯交ぜになった表情を浮かべた。足元に、ごく小さな白い花びらが落ちた。


「聞いたわ、貴女、魔法をかけられていたんですってね」
「あの時は、随分と見苦しいところを見せてしまいました」


すみません、と頭を垂れると、足音が響いた。シンドリアでは聞きなれない硬い靴の音だ。それがもう二つ、頭上で響く。


「……、泣かないのね」
「――上手な息の仕方を、教えてもらったんです」
「悪いことを言ったなんて、思っていないわ」


ゆっくりと顔を上げれば、艶やかな紅の髪が揺れていた。大人びていて、どことなくあどけない双眸が緩むことはなく見下ろされる。穏やかで柔らかく、少しばかり水のように冷たく、人肌に似て生温い。
そんなものに懐かしさを覚えて、思わず垂れた眉に緩んだ唇で言葉を紡ぐ。


「はい。有難うございます、紅玉さん」


彼女は、それからつつと視線を逸らした。


「…鍛錬に行くのでしょう、私に付き合いなさい」
「私でよければ、喜んで」


一歩詰め寄った足音にも、紅玉との差が三段分になるまで、彼女は動かなかった。



それから階段を一階ほど昇り、開けた鍛錬場で人影を見つけた。矢張り、ここには不思議な何かがあるのかもしれない。紅玉もその姿を見つけると、先程とは打って変わって年相応の少女らしい顔を浮かべた。その手に持っていたもの――白い花冠を抱え、ぱたぱたと彼、アリババに近づいていく。後ろ姿をぼうっと眺めながら歩み寄れば、何か険しい表情でアリババが呟く声を拾った。どうやら紅玉にもナマエにも気づいていないらしい。彼女が丁度彼の背後に近づいたとき、


「なんでできねーんだよっ!」
「きゃ!」


突然真横に振ったナイフが紅玉に触れる寸でに、ナマエの手がアリババの柄を握る手を押さえて止める。勢い彼女の肩を抱いてしまう形になれば、首元から困惑した声が上がった。次いでアリババの驚いた顔に頓狂な声がドーム型の修練場にはよく響いた。


「えっナマエ…それに紅玉さんまで!」
「ちょっとあんたぁ、危ないじゃないのぉ!」


するりと離れれば始まった非難の声に空笑いして、咄嗟に飛び出た手に反応の鈍りがないことに息を吐いた。どうしてここに、と首をかしげたアリババに対する紅玉を見るに、初めから鍛錬ではなく彼に用があってきたのだと知る。それから得意げに先程から隠したがっていた花冠を掲げてみせた。


「おお、うまくできましたねぇー」
「本当だ、花冠だなんて懐かしいなあ」
「ふふふ、どうよ!」


最初はあんなに不器用だったのに、と話す二人がどうにも微笑ましい。十七、八かそこらだろうに、あんなにも純粋だっただろうかと何の気なしに頭の奥に思考を傾けていれば、会話が途切れたのか刹那に沈黙が降った。


「……ナマエ、さんは、体はもう大丈夫なんですか?」


同じ程の高さから向けられる視線に頷いて、息を吸い込んだ。


「有り難う。アリババがいなければ、私はどうなっていたかわからない」


あのまま結界が壊れなければ、正気を手放したままシンドバッドを助けることもできず――。どちらにせよこんなふうにことを終わらせることなどできなかっただろう。それに、アリババやアラジンやモルジアナは、足元ばかりを見ていたナマエに上を向かせてくれた。
ありがとう、ぽつりとこぼれた声が、ゆるゆると彼とナマエの間で溶けて消えていく。
彼の戸惑う顔からわずかに目をそらして、奥歯をかんだ。――どちらも、大切になって、しまったのだ。


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