身支度を整えて扉の前から室内を見渡した。これからは再び緑射塔でロゼとの相部屋に戻る。身に余るベッドに被さっていたシーツを剥いで畳み、折り畳まれた布団が並んだ景色は、少しだけ不安に似た薄いもやを垂れ込ませる。この世界で、剣を握る。覚悟はいつだってすぐに揺らいでしまうのに、それを覚悟と言い聞かせて見ないふりをするのだ。飲み込んだ生唾とともに、胸の奥にそっと押し込んでいつのまにか俯いていた顔を上げた。
コンコン。
背後から響くノックの音に続いて聞こえた声は女性のもので、開かれたドアが背を押した。前のめりになって踏み出した一歩を軸に体をそちらへと向ければ、褐色の肌が目に飛び込んできた。
「ロ、ロゼさん…!?」
「はあい、久しぶり。今日で戻ると聞いて、来ちゃったわ」
にこやかな笑顔を前にどもる。些細な違和感を押しのけて出てきた謝罪やら感謝やらなにやらの言葉を喉元で引き止める。
――何故、彼女はここにいるのだろう。
ここは王と近しいものしか出入りの許されない紫獅塔である。ナマエは例外として、一介の侍女であるロゼが立ち入れる場所ではないだろう。
先日のこともあって露骨に訝しむこともできずに曖昧でそれでいて微妙な表情を浮かべる彼女に、ロゼは言わんとしていることに気づいたのか、部屋に入りドアを閉め、そうして淡く微笑んだ後、頭を下げた。
「ごめんなさい、ナマエ。私は貴女にひとつ、言わなくてはいけないことがあるの」
深い茶の瞳が細められる。息を吸い込むことも忘れて、その唇に見入っていた。
「世話役というのは建前で、本当は貴女の監視役をシンドバッド様から預かっていたわ。……ううん、一つだけじゃないわね。私は本来なら魔導士で、貴女にルフがないということも、知ってる」
「……」
「騙すような真似をしたわ」
ごめんなさい、と再度下げられた頭を見下ろした。
「……あのジャーファルさんですから――もしかしたらそうかもしれないとは、思ったことはあります。ただ、魔導士だというのは、流石に少しも予想していませんでした」
丸めた背中を起こしたロゼの髪が揺れる。その瞳に映る、自分を見た。
「本当のことを言ってくださって、有難うございます」
あどけなく、仄かに苦い微笑みだ。ならば彼女は気づいているのだろう。彼女には、病気ではないということも、世界の相違も、件の経緯も、伝えられているのだろう。
「これからも宜しくお願いします、ロゼさん」
差し出した手のひらが熱い。彼女はいつものように、しかし少しだけ苦く微笑んだ。
侍女の一切の仕事をするロゼの手は、ヤムライハの手より固く、ナマエよりも大きかった。
こうしてこの場所で結んだ人との繋がりは到底夢のようなものではなく、断たれれば痛みのあるものだ。例えそれが最初こそ、誰かに強制された関係であっても。
一回りほど身長の高い彼女は穏やかなブラウンの瞳を細めて、握っていた右手を離すとするりとナマエの頬を撫でた。
「……随分と、短くなっちゃったわね」
「……短いの、似合いますか?」
「幼い顔が尚更幼く見えるわね」
「……そんなにですか……?」
そして、指先が左耳に下がるピアスの留め具に触れた。もうそこには、あの深紅の重さはない。父からの期待も、そこにはない。ようやく、ナマエはこの世界に放り出されたのだ。
「……少し、怖いんです」
遠くなってしまった。感覚も、記憶も、思いも。思い出すには褪せていて、忘れるにはあまりに鮮やかなすべて。精一杯努めよと、珍しく微かに笑んだ父の記憶。どこにいても、その重みが宙に浮くのを押さえていてくれたのだから、喪失による軽さのせいで踏ん張りきれない。
「捨てても構わないと思っていたのに、なくなってから気づくことばかりで、本当は……本当は、あんなにも――父のことが、好きだった」
周りが変わっていくから、腐っていくしかなかった。そうして敵に回ることでしか救えないと思いつめるほどに世界が好きだった父を見つけることもできずに。
――なぜ、髪を切らないのかと聞かれたことがあった。剣を振るうには些か長すぎやしないかと呆れも含んだ声に、そういえば、どう返したのだったろうか。
ロゼは頬に置いていた手でぐしゃりと髪を掻き撫でると、首をかしげながら問いかけた。
「それは、もうやり直せないの?」
「……わかりません」
「…どうにもならなくても、どうにかしたいと思うのならきっと、なんとかなるわ。だって、私も貴女も、ここで生きているんだもの。気づけたなら一歩、なんとかしたいと思ったなら、それは二歩目。進んでいるなら、止まっているよりはいいわ。
だから、私は貴女に打ち明けた。このまま黙っていることだって出来たけれど、そうするには、ナマエが好きになってしまったのよ」
ふわりと、シンドリアの蒸した風の匂いがした。そこに混ざる甘い匂いは果樹園の、唇にまとわる味は海の潮。
「その人に返せないなら、違う人に、返せばいい。巡り巡って、なんて、よく聞くでしょう? あれは、嘘でもなんでもないわ」
ねえ、そうは思わない?
ちかちかと視界で何かが陽光に反射するように光っている。乾いた目尻に手のひらを当てて、俯くしかなかった。あまりに、眩しかったせいだ。それらが、痛いと思える程に、眩しかった、せいだ。
――もういちど、あの人の見ていた世界を見たいと、そう、思ってしまった。父の、隣で。
ここでの恩返しのたびに、願いからはきっと、遠ざかるのだとは気づきながら。
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