腰に提げた剣が重い。一歩ずつ踏む足の軽さとのちぐはぐさにバランスを崩しそうになる。白を基調とする広すぎるエントランスには、男が一人、長槍を携えて立っていた。


「――ナマエさん」


彼女の足音に振り返った男は、両目を大きく見開かせたあと、片方にだけ笑窪を作った。


「もう体は大丈夫なんですか? 風土病にあてられたって聞きましたよ。ここのは厄介ですからねー」


からからと笑う男、アルサスは、腰に手を当てるとそれから覗き込むように腰を僅かにかがめた。その視線が、左耳を映して瞬きをする。


「ピアス、外しちゃったんですか? そういえば髪も随分、さっぱりしましたね」


何の気なしに問う彼のどこにも非はない。それでも確かに痛むのは、自覚したばかりだからだ。
あははと眉尻を下げて笑うと、エントランスの高い天井から反響した笑い声が降ってきた。


「ピアスは壊れてしまって。それと、この国はとても暑くて、思わず」
「そうなんですか、いやでも、短いのも似合いますね」


あっけらかんとするアルサスはずれ落ちたターバンを持ち上げながら、長槍を持ち替えた。正午を告げる鐘の音が、近いような遠いような場所で何度も反響しながら響き渡る。それに紛れて近づいてくる足音が四つほど、硬質な床を蹴っていた。額に傷のある、この十三隊の隊長は、横に居る細面の男から視線をずらすと真っ直ぐにナマエを見た。
――各部隊長でもとくに上位の隊長と居合わせた隊員はすでに事のあらすじを知っている。彼もシンドリアに勤めて長く、事情はもちろん伝えてあると先日のドラコーンとの会話から聞かされていた。だからこそ、先ほどアルサスの言った言葉に詰まったのだ。どうやら隊長しか、おそらく知らないらしい。
アルサスとともに傾けた頭から、つつつと思考が流れ落ちそうになるのを上体を持ち上げることで堪えた。



*  *  *



段差を降りるたびに靴底が音を踏む。夜の寒色に染まった階段は冷え切っているように見え、思わず息を吐いた。当然、北方の国で見たような白い息は見えない。吸い込んだ空気は、やはり生温かった。
そろそろ武官たちは夜勤と交代し、ゆっくりとこのざわめきは遠のいて寝静まっていくのだろう。
かつん、と踊り場への最後の段差をおり、細長い窓から眼下を見下ろした。少しずつ、足元を照らす灯りは消えていく。夜は忍び寄り、海の音が近づいてくる。潮の匂いが、強く鼻腔に広がった。


「……ジャーファルさん?」


空間を反響してくぐもった声は、名を呼んでから僅かに後悔を滲ませる声をもらした。振り返れば、階下に見慣れた彼女を見た。遠目で見ても少しばかり火照った頬と、最後まで乾かすことをやめた髪が、彼女がここにいる理由を教えている。気まずげにいながらも逸らしはしない視線に彼女の真面目さを見つけた。


「見回り、ですか? お疲れ様です」
「ええ、気分転換に。どうでしたか? 久しぶりの仕事は」


苦笑いに似た表情をこぼすあたり、以前より感情を隠すことをしなくなったのか忘れているのか、どちらにせよ彼女はこの場所と人間に良くも悪くも慣れてきた証だろう。縮まりもしない距離のまま、ナマエは手に持ったタオルで髪をひと房握り締めた。


「これからもっと頑張らないと、前の自分にも追いつけなさそうです」
「まあ、それは仕様のないことでしょうね。焦らないことが最良でしょう」


続く言葉はなく、無音の溜息が落ちた気がした。
――焦りでは、ないのかもしれない。明確なそれと形容することはできない何かが、いうなれば、彼女にとって明日は訪れるのだという確信じみた安堵といえばいいのか。微苦笑を浮かべるその表情の中に、最後に見たような苦さはない。
そういえば、最後に彼女と話をしたのは、ヤムライハたちとルフの光に埋もれた一件であったかと思う。そう思うと久しく顔を見ていないような錯覚を覚えた。たかだか三日か四日そこらだったと思うが。
彼女は濡れた髪を左の耳に、そっとかけた。ついと、無言を退ける視線があがる。


「すみませんでした、痕は、残っていませんか…?」


自身の手の甲に触れた指先を辿って思い出す。いくつもあるうちの一つに紛れていた傷跡は、いまだうっすらと一筋、そこにある。


「ええ」


この階段だ。偶然にも、あの日と同じ。この月明かりに晒されながら、しかし、彼女の両目はしかと彼を見据えている。息を吐いた。


「――体が冷えるでしょう、もう戻った方がいいですよ」


部屋に戻れと、彼女にはこれまで何度も言ってきたが、そのどれとも声音が違う。ナマエは眉尻を下げて、少しだけ口角を引き上げた。変化していくものに、お互い微苦笑するほどには気づいている。
再び降りた沈黙にふと彼女を見れば、月の光にあてられて、青く澄んだ瞳はまるで人形のように、奥底で光を反射させる。どこまでも透る、青だった。


「有難うございます」
「――?」


改めて礼を言われることなど、先の会話の中であっただろうか。それを見越して彼女は「全部に、です」と、笑った。ひどくぎこちない。それでいて、柔らかかった。
失礼します、と深々と下げた頭から、雫が垂れる。そのまま廊下へと立ち去っていく規則正しい足音を、聞いていた。
振り返り窓から見下ろした街は、ひっそりと朝を待っていた。


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