その日も変わらず、よく晴れた日だった。王宮はにわかに浮足立っているような気さえする。それは、どちらかといえば彼らだけなのかもしれないが。


「この後警備があって、船まで見送りができなくて……」
「ううん、旅立つ前に会えただけでもうれしいよ!」


身に余るほどの大きな荷物を背負ったアラジンはにこりといつもの笑い顔でナマエの手を取る。彼らはとうとう、このシンドリアを出ていくのだという。アラジンは魔法の向上のため、モルジアナは故郷を見るために。それぞれが個々の目標を目指して、見知らぬ土地へ行くのだという。ここにはいないアリババは、アラジンが一人で決めて行くことに腹を立ててしまったのだそうだ。意地を張っているのだなと、心の中で小さく笑った。少しばかり寂し気な表情を浮かべた二人に、きっとどこかでまた会えるよと、気軽に言ってしまえるほどにはなんとなく、彼らには離れがたい何かがあるような気がした。


「ナマエさんは、これからどうされるのですか?」


純粋に聞かれた言葉に、思わず緩んだ口許を結び直す。幾分、余裕があったのだ。答えには詰まらない。


「ここに。シンドリアには、返さなければならないものが有り過ぎるから。勿論、アラジンやモルジアナ、アリババ、紅玉さんや白龍さんにだって、ありますから、もし何か力になれることがあるなら、皆のもとに行くよ。役に立てることは少ないだろうけど、」


空でも飛べるのであれば一人でだってすぐに行けるが、そうではないことは知っている。だからこそ、答えに嘘はないが、少しだけ苦い味を残した。
二人は絶対だよと年相応に朗らかに、それでいて柔らかく強い約束をする。温かい小指を絡めて、絶対にと、嘘のない言葉を乗せた。


「……本当に、ありがとう。貴方たちには、ずっとお礼が言えてなかったから」
「ナマエさん」
「助けてくれて、ありがとうございます」


絡めた小指を離して、掬いあげてくれた二人の手をしかと握る。温かく、小さな手だった。この手があったからこそ、あの時のナマエは確かに、救われたのだ。
二人は酷く温かく、そして柔らかく微笑んで、大丈夫ですよとこぼした。


「それじゃあ僕たちもう行くね」
「気を付けて。無茶だけは、しないでね」
「それはナマエさんもですよ」


温かな手が離れたせいで、冷えた空気が手のひらを撫でた。
赤蟹塔の前までしか見送りはできず、そこから手を振る二人を見えなくなるまで見つめていた。そのまま、彼らは船に乗り、大海をわたって行く先々で、新しいものに触れていくのだろう。あの頃の自分自身のように。良くも悪くも、いろいろなものに出逢うために。
もし、彼女の目にルフというものが見えていたのならと思う。そうしたら、恐らく視界一杯が白く輝いていて、真っ直ぐ見ることさえかなわなかっただろう。
彼女は小さくなって建物の影に溶けた二人とは正反対を向き、廊下の角に近づいていく。


「――追いかけないと、船に乗り遅れちゃうよ」


ついもれそうになる笑いをこらえて、壁に背をもたれる。ひょっこりと、金色の髪が角から顔を出す。ナマエがしゃがみこめば、むくれた少年の顔を見た。


「ふふ、」
「笑わないでくれよ……」
「引くに引けなくなっちゃったんだね」
「――……俺だって、」


ずっと一緒に、冒険していくのだと信じていた気持ちとは別の選択を選んだアラジンに戸惑っていたアリババは、どうやら昨日もうまく話ができないままだったようだ。そうして朝を迎え、つっけんどんな対応をしてしまったせいで今のこの状況に至ると、頭上に重たい空気を乗せながら話した。
ナマエの口から、何かを言えることはもうないだろう。彼自身もうしなければならないことに気づいていることも、立ち止まる時間がないことも、わざわざ二度も同じ言葉を紡がずとも、分かっている。ただ少しの、例えば立ち上がるために手を引くことだけが、唯一のできることである。


「アリババ」
「なん――っうお」


アリババの目の前に立ち腕を引きあげれば、彼は体勢を崩しながらも勢いつられて立ち上がった。脇に置かれた荷物を胸の前に押し付け、港の方向へと体を向けさせる。相変わらず、出航日和の青い空が広がっていた。


「行ってらっしゃい!」


とんと背中を押せば、一歩足を踏み出して、彼は空を見上げた。
その両の瞳に何が映っているかなど、問わなくてもいいのだ。青い空でも、これからの旅路でも、モルジアナやアラジンの姿でも、はたまた別の大切な誰かでも。彼の行く道を、指し示してくれているものだということには変わりないのだ。


「ナマエ、あの、俺」


見上げていた視線が足元を通り後ろにいたナマエを映す。言いかけては澱むはっきりとしない唇が、少しの間の後意を決したように開かれる。彼の稲穂のような瞳が、ふるりと揺れた。


「っまた、海行こうぜ! 何かあったら絶対、戻ってくるから、そしたら気が晴れるまで付き合うからさ!」


何かあったら、頼ってくれよな。
頼りになれるよう頑張るからさと続いた言葉に思わず笑みがこぼれた。こんなところにも、繋がった糸はあるのだ。
アリババは赤らんだ目元を隠すように、両頬を思いきり叩くと、右手を差し出した。その右手を自身のを重ね、柔らかく指を曲げた。


「行ってきます」
「うん。何かあれば、私も力になりたい。どうか、気をつけて」


そうして離れていく手を振りながら、先程の二人より大きな背中を見送った。もう、この王宮で見かけることはなくなってしまうのだろうなと思うと、漸く寂しさが実感を伴ってわいてきた。アリババは見えなくなる寸前でもう一度手を振って、小走りで去っていった。ぴょこぴょこと跳ねる髪が、眩しい残像を残して消えていく。
そろそろ外警備の準備をしなくてはと分かってはいるのに、まだそこから動けずにいた。いつの間にか安心感を抱いていたらしい。十三のナマエにとって、三人の傍は居心地が良かったのだ。この動けなくなった足は、自分で動かすしかない。


「……そんなところで、何をしてるんです?」
「――ジャーファルさん」


軋みを上げながらやっと反転した足は、彼の姿を見つけて再び立ち止まった。猜疑でもなく、ただ純粋に疑問を浮かべているジャーファルに少しだけ苦笑いを浮かべる。するりと、言葉が口をついた。


「今、アリババたちを見送ったところだったんです。いなくなってしまうと思うと、つい寂しくなってしまって」


ああ、と何かに納得した風な彼は、踵を返して数歩進み、続かない足音に左足だけを引いて振り返った。


「――仕事もあるんでしょう、動かないと遅れますよ」


動かないと、と言葉を選んだ彼の中に、どれだけの意味があったのだろうか。思いがけず面食らったような顔をしてしまっていたのか、ジャーファルはわずかに眉根を寄せて、再び歩みを進めた。ついて行かないとと無意識に感じた右足が一歩踏み出した後、それから先は躓くことなく歩いている。ジャーファルの少し後ろに追いついたところで、やはり言葉には意図があったのだろうかと思案した結果、そうでなかったとしても、お礼だけはと口を開いた。


「ありがとう、ございます」


彼は特別言葉を重ねず、いえ、と一言零しただけだった。それから彼女の目的地である赤蟹塔まで話らしい話など交わさなかっただが、不思議と、息苦しさは感じなかった。頑張ってくださいと別れ際掛けられた声が嬉しく、笑ってはいと返せば心なしか微妙な顔が返ってきた。その瞬間だけは妙に気まずく、彼がすぐに背を向けて歩き始めたことに安堵すら覚える。
階段を駆け上りながら、言いようのない胸中を紛らわせていた。


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