頬を伝う汗を手の甲で拭った。それでもじわじわと落ちてくるそれをもう一度乱雑に払うと、頭上から堪え切れずに漏らしたような笑い声が降ってきた。


「ナマエさんもう諦めて、服装変えたほうがいいんじゃ?」
「いえ、これはもうこのままで。動きにも慣れてきて……暑さは…心頭滅却すればなんとやら、です」


言い切らないうちに落ちた汗に、今度は盛大な笑い声が響いた。隊長がいないとどうも彼は笑い上戸になる。苦笑するほかなく、アルサスの提案を後で真面目に検討することにした。

――あの事件から大分時間は過ぎ、大凡ひと月ほど経とうとしていた。同じ部隊の彼とはこうして砕けた口調で話し合うようにもなり、短かった髪は項の一文字の傷を隠す程度には伸びていた。今日も変わらず午後の巡回警備に勤しみ、夕食の後は手合わせをして一日を終える。日々に大きな変わり映えはないが、ひと月も市中への巡回警備に当たれば自然と周囲に顔を覚えてもらえるようになった。


「あらナマエさん! 顔が真っ赤だよ、ちゃんと水飲みなよ!」
「お、なんなら果物でも食べるか?」
「お気遣い有り難うございます。仕事が終わったらいっぱい買い込みますね」


いっぱい、と両手を広げて表現すれば売り物が無くなっちまうなと笑い声が上がった。
本当にこの国の人はおおらかな人ばかりだ。言葉を重ねる度、武官でいることを嬉しく思う。国王を守ることはつまり、民を守ること。その逆も然り、だ。シンドリアの力になりたいと、そう覚悟を決めたのだから守り通さなければ騎士は背負えない。シンドリアの武官であり、騎士であるのだ。それは、もう揺るがなくていいと、思えるようになった。


「ナマエさん」


一瞬思案に耽っていたナマエを引き戻すアルサスの声は、海を見ていた。中央市も端まで周り、今は海岸線を見廻っていた。彼の双眸は珍しく険しく、それは停泊中の船を眺めている。努めて声量を落としたまま、周囲に気を配りながら話し続けた。


「あとで隊長からもあると思うけど、最近停泊許可のない船が夜間うろついているらしい。一度夜間警備が声をかけたときは、進路を間違えたから物資を調達したらすぐに出ていくと話していた。それ自体はまあ珍しい話じゃない。ここらへんは潮の流れが入り組んでいるからね」


ただ、と更に小さくなった声は、海岸線で区画整備された遊歩道の終わりに差し掛かると一層厳しさを増した。


「許可証を持っていたとしても、安全だとは言い切れない」
「……偽装した許可証が出回ってると?」


頷きはしなかったが、恐らくは似たようなニュアンスではあったのだろう。アルサスは初めて通る市中の中でも、とりわけ人気の少ないところを進み始めた。警備を始める前にこのルートの巡回回数を増やしているのだと言っていた。いつも見廻らないルートも回数を増やしたことによって多くの部隊が担当に振り分けられたのだ。
このシンドリアには確かに貧富の差はあれど、よくあるスラムという状態はないに等しい。シンドバッドたちが財政を圧してでもその対応には尽力しているためで、人気が少ない通りも比較的衛生的であった。中央に比べてあまりにも静かすぎる空間に、思わず鳥肌が立つ。こういった雰囲気を味わうことは、本当に久しぶりだ。不愉快なほどに流れていた汗が、ぴたりと止まった。
わずかにずれた呼吸に気づいたアルサスが、ぽんと軽く肩を叩く。見上げれば、柔和な笑みを浮かべていた。


「あくまで噂。それを確たるものにするにしても、嘘だったと決めるにしても、俺たちは一つ一つ潰していかないといけない」


そうですよね。掠れた声を飲み込んで、強く肯いた。醸し出す不安な空気に呑まれていた。この国は、以前の老婆やアル・サーメンといった人ではない脅威に晒されているという。今までのこの平穏が、手放しに続いていくわけではないのだ。
かつかつと二人分の足音が響く。どこかから見張られているような気がした。それが培われた第六感によるものか、不安から来るものなのかわからない。気を、引き締めていこう。市中警備に限らず、少なくともこの噂が判然とするまでは。
バオバロブの群生による日陰を踏みながら、市街地へと回っていく。疎らだった白い箱の家が増え始めた頃、照り付ける日差しが真っ直ぐに肌を刺す。裏道の異様に涼しい空気にあてられて、今はこの太陽の痛い熱に心地よさを覚えていた。


「恐らく、その内夜間警備も回ってくるようになると思う。部隊の管轄が違うから海上警備までは飛ばされないと思うけど、警備中は気張っていこう」
「はい」


あとは反対側を巡回していた隊長たちと落ち合うのみだ。大分傾いた日が、紫の空を引き連れていた。


- 98 -
BACK TOP