夜に冷やされた廊下は酷く静かで、少しの気味悪さと心地よさが潜んでいた。
歩みを進めるほど音は遠く反響して響き、誰かに後をつけられているような錯覚を覚える。彼、ジャーファルはずしりと両腕に圧し掛かる書類の束を抱え直し、先程より歩調を速めて歩き始めた。暗闇に恐怖を抱くような歳ではないが――寧ろそのほうが安心感を抱くが――如何せんこの現状、すべてを勘ぐってしまいたくなるのだ。彼自身それが行き過ぎた懐疑であると分かってはいる。それでも、残りの可能性を無視できるはずもなかった。
「――シンドバッド王」
とても重たく、まるで拒まれているかのような扉に向かって声を張る。ノックのひとつでもするのが礼儀なのだろうが、生憎彼の腕は二本しかない。
扉の内側から明朗な声がひとつ響き、ジャーファルは肘と肩を器用に動かして室内へと体をすべり込ませた。ゆっくりと顔を上げたシンドバッドは苦笑いに近い笑みを浮かべると静かにペンを置いた。
「……まさかとは思うが、明日中に、か?」
「そのまさかです。今までご自身がさぼり続けた結果ですので」
どん、と明らかな重さの質量を伴った音に、少し苛々とした気が晴れる。流石に期限を守らないという国と自身を含めて不信に繋がりかねないことはしないので、彼は顔を歪ませて頷いた。
ランプの明かりがぐにゃりと揺れ、不安定な影を落とす。シンドバッドの紫に似た深い髪色が赤く染まっているのを視界に映しながら、彼はぽつりと呟いた。
「何故、王宮の仕事を与えたのですか」
「不満か?」
「勿論です。王宮内にいるというだけで、貴方自身気を抜く暇もなくなるでしょう?」
ジャーファルは両袖を合わせ口元に運び、目を細めた。言いたいことがあるとき、少しの間を置くための癖になっていた。それがわかっているからこそ、シンドバッドは薄く唇を引いて微笑した。
ぴくりと彼の眉が不機嫌に顰められるのを見やり、椅子に深く腰掛ける。
「……もし、ヤムライハが空から降ってきたら、どう思う?」
「……杖から、落ちたのだろうと」
「だろうな。その場にいたのが俺やジャーファルだったとしても、彼女は杖から落ちてしまったのだと言うはずだ」
何が言いたいのか。それは問わずとも理解はできた。ただし理解と納得というものは全くの別物である。
彼はあくまでも愉しげに事を傍観している。それはおそらく、中身の分からない箱を開けるときの感覚と対して変わりないのだろう。その楽観的な考え方がいいのか悪いのかはその場の状況と相対する人間によるものなのだろうが、少なくともジャーファルにとっては面倒極まりなかった。
「本当だとしても、嘘だったとしても、それが一番無難な答えだと思わないか? 魔法が使えるのなら尚更だ。だが、彼女はわからないと返した。迷宮攻略者かとは思ったが、彼女の身の回りの品にそれらしいものはなかったしな」
「……つまりは、何故彼女が突然空から落ちてきた理由が知りたかっただけ、と?」
「あとは、彼女が困っているように見えたからだな。今はもう治ったかもしれないがあんな派手な怪我を負っていたんだ、俺は落ち着くまでここにいたほうがいいと思っていたさ」
にこりと微笑んだシンドバッドの机にもう一山書類の束を積みあげてやろうかとさらに目を細めて睨みつければ、彼はただ笑うばかりであった。
――とかくこの王は女性に優しい、いやただの女好きだ。だからこそこうしてなけなしの心を配っているというのに、それもすべて一蹴されてしまう。次から余計な配慮はやめようと思いはするが、実践できたことは今のところない。
ジャーファルは盛大な溜息を飲み込むことなく吐き出した。これでシンドバッドの酒癖、女癖、サボり癖が一挙に改善するというのならいくらでもするというのに。
「……彼女が怪しいと思いたくなるお前の気持ちがわからなくはないが、ただ偶然乗り合わせた船の前に落ちただけだろう? 疑い過ぎだよ」
唇を歪める彼に、目を伏せた。
自覚はしている。何度も考えては咀嚼を繰り返してきた。それでもやはり、最後に残るのは責任という一点に尽きる。
「……あなたがいつもそうやって楽観論ばかり仰るからですよ」
「俺は自分の感性が正しいと信じているからな」
そう言って子供のように笑った彼の笑みに目を閉じ、ジャーファルは踵を返した。ひらりとクーフィーヤが翻り、涼やかな風が首筋を撫でる。ノブに手をかけ振り返れば、相変わらず彼は笑っていた。
「ルフの導きだと、アラジンは言うだろうな」
「……良いことも悪いことも、ですけどね」
脳裏に浮かんだ少年の笑顔に、思わず苦笑いが落ちる。そんなにも純粋なものですべて片づけることができるのであれば、この目の前にいる王が身を削ることもなかったのだろう。
「明日中、ですからね」と念を押せば、彼はげんなりとした顔を浮かべて右手を上げた。頭を下げてから部屋を出ると底の見えない暗闇が襲い掛かってくる。
光に慣れた目を瞑り、ゆっくりと歩き出した。自身の反響する足音ばかりが響き、瞼の裏が柔らかな光を感じたとき徐に目を開ける。
青白い月が、ぽつんと一人浮いていた。
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