すっかり慣れていたと思っていた傷の痛みは、治癒魔法も使えないという状況になるとどうにも強さを増すらしい。たかが擦り傷、切り傷の集まりがじんじんと痛みを伴ってそこに居座っている。頬、腕にできたそれらは、滲んでいた血は既に固まり、皮膚ばかりがごわごわと剥げていた。
「今日は一段と派手に怪我してたね、大丈夫?」
アルサスは訓練終わりの後共に昼休憩のご飯を食堂で食べながら、頬の傷を覆うカーゼを指差した。
「まだ自分が弱い証拠ですから……悔しいです」
「今日は相手が悪かったよ、何せあのゴリゴリの肉体派だからね」
そう言って三列先の席の一番右端に座りもくもくと凄まじい量のご飯を平らげる男を指差した。海上及び港付近の警備についている彼は武官の中でもとりわけ屈強で、その容姿も相まって他国の牽制にと抜擢されたほどでもある。
手合わせは基本その場の近くにいた者同士で行う。彼はわざわざ、ナマエの近くまで歩み寄ってきたのだ。
その細腕で何ができると、安い挑発付きで、だ。
「……ナマエさん、顔が怖い」
「あ、すみません」
寄せていたらしい眉間の皺を指で伸ばし、大きくちぎったパンを無理やり口の中に突っ込んだ。
そもそも戦闘スタイルが違い過ぎるのだ。力でごり押しができない分、押し通されそうになる暴力をいなし、カウンターで返すか、低い身長を生かして死角から押し込むか、どちらにせよ体格差が十分にある相手には馬鹿正直に突進などしない。それをさせてはくれない程の力で抑え込まれた挙句、体制を整えさせる間もなく吹き飛ばされた。あんな男と闘い、これだけの傷で済んでましだとさえ思える。――それと、この悔しさは別物だ。覆せようのないものだからこそ、人一倍の努力が必要なのだ。どんな相手であろうとなぎ倒せなければならない。舐められるなど、あってはならない。
吹き飛ばされた衝撃で腕全体に擦り傷が広がるも、こんな浅いものに処置や、ましてや誰かの魔法など使うことは許せなかった。完全に意地である。
「……絶対次はうまく立ち回る」
「無理はしないでくれな、腕でも折れたらそれどころじゃない」
アルサスにはまた十三隊が減っちまうと苦笑いされた。そんな言葉が出てきてしまうほどには、弱かったのだ。
体術の増強は魔導器に頼っていた面もある。それが無くなった今、どうにかしないとなるまい。
午後の訓練に備えて、渇いた口の中にスープをかき込んだ。
完敗だ。
この敗北感は騎士団に入りたての時に感じたとき以来であると断言できる。見事に繕うこともできないほどに完全にナマエの敗北だった。
午後は自らあの男に志願しに行った。周囲のどよめきを無視して、体格のいい男に対していかに対応するか少しでも学ぶ機会を得るためには避けては通れない壁だと感じたからだ。案の定どれだけ手合わせしたところで一矢報いることはできなかったが、好機を得ることは何度かあった。ただ我武者羅に手足を投げ出したところで、勝てるはずもないことは重々承知だ。その好機をいかに広げ、そこから攻撃へと転じられるか。まずは基本的に体術の技を磨いていくことに専念することにした。脳裏に浮かんだのはモルジアナの姿だった。
今はどうしているのだろうか、と安否が気になったが、彼女たちはどんな環境にあったとしても変わらずに進んでいるだろう。強くあれば何かの救けにもなれるかもしれない。彼女は武器を使うわけでもなく己の体一つで戦っていた。聞くにそういう種族なのだと言ってはいたが、そういえばモルジアナによく似た男がいたなと思い出した。あまり接点はなかったので話す機会は少なかったが、謝肉宴で迎えに来てもらった時に会話をしたくらいである。彼こそ、最も理想に近い男だ。
赤蟹塔からの帰り道、緑射塔に差し掛かる分岐点で立ち止まったナマエはすぐさま黒秤塔へと方向を変え歩き始めた。八人将で確実に会えると考えられるのは一人しか知らない。
* * *
黒秤塔の奥の一室に彼女、ヤムライハはいる。あの魔法陣を踏んだ部屋に、今も何かに没頭している。魔導士という人は理を紐解き、如何に最短で構築できるかを追い求めている。故に魔導士は皆集中しはじめると周囲の音の一切を遮断する。既にノックは五回を数えるが、気配を感じるに中にはいる筈なのにも拘わらず、ノブが動くことはない。
最後にノックを一回、ノブを捻って聞こえないであろう入室を告げる声をかけてから部屋に入った。
散乱している。詰みあがったものが絶妙な平衡を保ったまま、そこらかしこに開きかけの巻子が本がチョークが布が魔道具の残骸が靴が服が、所狭しと床を占拠していた。いつきてもこの風景に変わりはないが、この埃っぽい空気は流石にどうにかしたほうがいいのではないかと世話を焼きたくなるのも本音だった。片づけは以前しようとしたが、怒られたのでもうしない。
「ヤム、いる?」
帰ってくる声はないが、隣の部屋から声が聞こえてきた。どうせ入り口で呼ばれても気づかないから入ってきていいとこれ以上進んでいく許可はある。だからといってずかずかと踏み込むことなど出来る筈もなかった。扉を後ろ手に締めて声を遮る一つの要素であるだろううず高く積んでいる山を越えて一声。返事はない。心の中でごめんと数度唱えたところで更に奥へと足を踏み入れた。ここから奥の部屋に居る時は大抵羊皮紙を広げて何か考えを纏めている。大きな机一杯のインクの滲む紙を広げて、一心不乱に一語も忘れまいと書き殴る姿は鮮烈だった。あの時の姿を想像すると、今でなくてもいいか、と思う心が顔を出した。急を要する事柄でもなかったのだ。
錘の入ったブーツの爪先が鳴らす音は止み、数拍の間をおいて引き返した。
――この部屋に入るときは次からまじないをかけてもらってからにするとしよう。平衡を保っていたはずの荷の山が、一部崩れた。本や巻子の数冊ではあったが、頭上に落ちたものを筆頭に容赦なく体を殴りつけるように落ちてきたのだ。午後に新しくできた打ち身や擦り傷にも当たり、情けなく小さい悲鳴を上げた。痛い。気を抜いていたから尚更だ。やはり安易に他人の部屋になど入ってはいけないのだ。
ナマエの声と物音で漸く気づいたのか、奥の部屋から二つの声が弾けた。――低い声と高い声、だった。
「なんの音ですか?」
「よくありますよ、多分山が崩れただけかと」
「……あなたねぇ、片付けることも覚えて下さ、い――?」
今日はなんとも不甲斐ない一日だ。これは完全に野暮であった。だからやはり妙齢の彼女の部屋など入っていい許可を鵜呑みにするべきではなかったのだ。
落ちた巻子を拾っていた傍から、また落ちていった。
「……お疲れ様です」
「ナマエじゃないの! なんだ全然気づかなかった…ってどうしたのそんなボロボロで!!」
まさか今の物音の所為、と青褪めるヤムライハに全力で首を横に振り、稽古で、と思わず声を張り上げた。優しい彼女はすぐにあの日を思い起こすだろう。そんな悲しい気持ちを蘇らせたくはない。第一どちらも原因はナマエにあるのだから。
「それにしても酷い傷よ、待っててすぐ治すから」
「大丈夫、これは治さなくていいの」
すぐに駆け寄ってくる彼女は、頬のカーゼに触れようと伸ばした手を下ろした。
「ほら、傷痕なんて今に始まったことじゃないし」
そう言って左腕の肩や二の腕にある傷跡を指差した。そんなもの今更増えたところで痛くもない。傷の数だけ、強くなりたい気持ちを押してくれる。そう言えば理解が出来ないような眼差しを向けられたが、こればかりはシャルルカンの方が分かるかもしれない。へらりと笑えば、ナマエがいいならと納得してはいない顔で引き下がる。
「ヤムライハに、何か用があったのではないのですか」
奥から顔を覗かせたのは、やはりジャーファルであった。意図せず下げてしまった視線を彷徨わせた後、ヤムライハを見て笑うしかなかった。自分でもぎこちなかったかもしれないと思う程に、何故か顔を作ることができない。
「あ、えっと、また! また、今度ゆっくり話に来るね。ごめんなさい、邪魔してしまって」
「ナマエ?」
「それじゃあ、えっと、ごめんね、また明日」
そう扉まで距離があったわけではないのだから、急ぐ理由などどこにもないはずなのだ。後退る足が踵を返し、思いのほか足音は強く響いてしまった。ドアだけは、冷静にと何度も呟きながら音を立てずに閉め、弾かれるように黒秤塔を後にした。
――傷のない右頬をつねる。何故、うまく笑えなかったのか全く分からない。頭に盛大な疑問符を浮かべたまま目的もなくただ歩く足を進めていれば、勢いよく誰かとぶつかった。壁にでもぶつかったのだと最初は思う程に硬さを感じたが、足元を見ていた視界は確かに人の足を映していた。
反動でそのまま倒れそうになるところを、誰かが腕を引いたことによって免れた。大きい手だった。
「大丈夫っスか」
「っだ、いじょうぶです、すみません」
どくどくとした心臓を押さえつけるように服の上から胸元を握りしめ、離れていく大きな手を追うように顔を上げた。首が痛いほど、間近のその人は背が高い。そうして、開いた口を閉じることを忘れてしまった。
「マ」
「? ――あ」
「マスルールさん!」
この世界はルフというものが運命を形作っているそうだが、だとするならば今日の運命とやらは随分と意地悪なようだ。
黒秤塔の行く道の前後が違えばよかったのに。ランプの灯りによって燃えるような橙の彼の口の下のピアスを眺めてから、大きく息を吸った。
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