午後の軍事訓練の最中に飛び込んできたアバレウミガメは、ジャーファルの手によって仕留められた。陸に上がった南海生物など、以前はアリババたちがいたときの頃であったから、久しいような心持ちで謝肉宴の準備に取り掛かっていた。謝肉宴は国中に国旗を掲げたり広場でやぐらを組んだりなど準備しなければいけないことは多く、勝手を知らないナマエはアルサスについて回っていた。
日も暮れなずむ頃には準備も終わり、今回は警備担当だねとアルサスと話しながら赤蟹塔へと向かっていれば武官の招集を告げる報せが届いた。大広間には既にドラコーンの姿があり、あの朗らかとした謝肉宴の雰囲気など微塵も感じさせない。各隊の隊員の人数確認が終わると、前方に立つドラコーンの咳払いが響いた。
「皆準備ご苦労。知っての通り、今この国には不穏な空気が流れている――」
無断停泊の商船や、商会の許可証の偽装の件など、気の抜けない事案が埋もれている。端的にいえば、警備の際に武器の装備を徹底し、二人一組で行動、そして何か不審な点があればすぐに報告せよとのことだった。謝肉宴は国民にとっても盛大な祭りであるので、武器を装備するなどの物々しさは本来避けるべきものではあるのだが、今回ばかりは安全が第一に優先されるべきだ。そうだとしても、警備時間外は基本的に好きにしていいという姿勢に変わりはない。
解散の号令の後、各隊で巡回経路と担当の確認をし終えて一度自室に戻ろうとした足を、ドラコーンが呼び止めた。
「――む、やけに傷が目立つが、何かあったのか」
「いえ、自分の不甲斐なさの所為でして、日々鍛錬に励んでおります」
「そうか。無茶をするなとは言えんが、武官は肉体も資本だからな」
「はい、有難うございます」
疎らになっていく広間には彼の声がよく響く。去り際の武官たちの視線を浴びながら、彼の要件を考えてはいたが何も思い当たる節がなかった。あぐねている表情に、身構えるなと諭されるがそういうわけにもいかないのだ。
ドラコーンは少しの間を開けた後、普段と何ら変わりのない声音で言葉を続けた。
「謝肉宴では女性は皆ああいった服を着ているだろう。今日は巡回警備はせずに、国民に紛れて話を聞きだしてほしいのだ」
「……それは、今回の件であればどのようなものでもということでしょうか」
「そうだ。不穏な挙動を見せれば近くの武官を頼れ。武器の所持は任せるが、怪しまれぬ様にだけは注意をしてくれ」
「――御意に」
彼の命令であればそれに拒否権はない。指を組んで頭を下げれば、よろしく頼むと最後に一言だけ残して去って行ってしまった。
何事にも、適材適所というものがある。差別ではなく特徴は生かすべきものであり、現にこれは男性よりかは懐の入りやすさを重視した結果彼女に落ち着いただけの事だ。ドラコーンから話が持ち上がるということは、恐らくはシンドバッドたちの何かしらの思慮はあるのだろう。鏡台の前に立ちながら、溜息を吐くことは止められなかった。
「……こんな傷だらけの一般市民がいてたまるかって……」
左肩の傷痕はもう治りはしない。その上からも擦り傷、切り傷、青痣が重なり、ただでさえ露出の多い服の所為でどの傷も隠すことなど出来るはずもなかった。化粧道具をロゼから借りてはみたものの、青痣が少し薄まるくらいである。――夜の暗さとは言え、あまり火の近くには寄らないようにしよう。余分にもらっておいたシースルーのショールを羽織れば、それらしい雰囲気は醸し出せるかもしれない。
ベッドに放り投げていた短剣を右の太ももに巻き付けて固定し、最後の身支度を整えて部屋を後にした。
市場警備の割合が多いので自然と顔見知りにすれ違うことが多いのだが、普段と様相が変われば意外と気付かれ難いもののようだ。それもそれで悲しいものはあるが、今回は寧ろ助かった。既に酔払いが犇めいているような状況が出来上がっており、城下は祭り一色になっている。長槍を持つ武官ともすれ違ったが、あまり誰も気には留めていないようだった。
配られている多様な花と料理を手に、朝市でよく他国の物を売買している商人の許へと歩み寄る。まずは見知っている中で商人に聞いて回ることが早いだろう。
「こんばんは、アバレウミガメの刺身もいかがです?」
とにかく当たっていくのは、ユーリが近くにいて沁みついた行動力かもしれない。
振り向いた商人の男性は、近くで見ると巡回で遠目に見ていた時よりも意外と年が若い。彼は確か、極北の地に住む動物の毛皮や、鉄でできた鋳物など手広く扱っていたと思う。酒を持つ手を掲げてにこやかに彼は料理の皿をさらっていき、次いで隣の椅子を座れといわんばかりに引き寄せた。既に血色のいい顔面は、程よく言葉を回してくれそうだ。並々と注がれていく酒に、歪みそうになる顔を務めて崩さない様に保ちながら、小さく息を吸った。
* * *
組んだ櫓から燃え盛る炎の勢いが弱まっていく。仄暗く落ちていくあたりの暗闇は、もうすぐ宴の終わりを告げていた。
「――んで、それでよぉ、どこまで話したっけかあ?」
「最近巡った国の話ですよー」
「おおーそうだったっかなあ、あー、そう、その国にな、俺の一等よく育った物を売りに行ったんだよ。そしたらよお、商会登録番号と証明書を出せっつってきやがって、今までそこまでやったことなかったのにだぜ?」
串焼きの肉を勢いよく噛みちぎり、咀嚼しながらも言葉を続けた。
「んで、先に入ってた知り合いがいてよ、なんでも人さらいが増えてるってえ話でよ」
「――人さらい、ですか? こわい」
「だははは! シンドリアじゃあ起こるはずもねえだろおよお! 起きたとしても王様が一網打尽にしてくれるわあ!」
げらげらと腹を抱えて笑い始める彼は相当に笑い上戸のようで、何がそんなにも面白かったのか暫く笑い声が収まることはなかった。彼が突っ伏しながら呼吸を整えている間に、串に刺さる残りの肉を頬張り、酒を飲み込む。ちびちびと飲んでいたナマエの手元の酒は底が見え始め、注ぎ足されないよう胸元に引き寄せて中身を隠した。これ以上はこちらの頭が回らなくなりそうだ。
彼も思考回路が曖昧なようで、やっと治まったかと思えば段々と話題は農作についてに移り始めていく。適当に相槌を打ちながら、かれこれ五人程の商人と聞いた話を頭の中で整理していた。
五人中三人は噂のことすらあまり知らないようだったが、残りの二人は同じような話をしていた。二人ともが、人さらいが横行しているという内容を話していた。奴隷制度の残る国に売り飛ばすなどして得た金品を宝石などに換え、国家間を渡り歩いているらしい、といったことを話していたのは確か宝石商だったはずだ。それ以上に目ぼしい話などなく、一応他にも客人などとも話はしてみたが、それらしい情報は得られなかった。
とうとうと話している男の双眸が微睡み始める。このまま隣にいてもとくに何も引き出せそうにないので、ゆっくりと椅子を引きながら、こくりとし始めた瞬間に席を離れた。下手に去り際に声をかければ面倒な事態にもなりかねない。極力そういった事は避けたいので全力で逃げるに限るのだ。
ある程度距離を置いたところで、ようやく一息をついた。ひとまずはこのまま祭りも終わるだろう。酔い覚ましに風に当たりたいが、ここでは人が多すぎて暑苦しい。海辺の方へと向かえば、また進展もあるかもしれない。重だるくなり始めた足を叱咤して、込み合う合間を縫っていく。
周囲に目を配りながら歩いていれば、不意に何かが視界を過った。
――鮮やかな赤だった。露店から吊り下げられている赤は、あの寂れた執務机の上で咲き続けていた赤に似ている。完全に歩みを止めてしまった足は、吸い寄せられるようにそれに近づいていく。香ばしい肉の匂いを掻き消すほどに、その花の匂いだけが立ち込めているような気がした。
ふらふらと近づくと露店のすぐ脇のテーブルで眠気と格闘している男と目が合った。
「あの、この花って」
「ああ? んなのシンドリアじゃあどこにだって咲いてるよ」
「一輪、頂いても?」
「売りもんじゃねえから、好きなだけもっていきな」
その男は、ナマエの言葉に脱力した手を上げた。ほとんど呂律も回っていないような口調で、有難うと返したが返事はなく、振りむけば既に寝に入っていた。茎を一まとめにされて吊るされていた花々の中から、二輪を引き抜く。
――けじめをつけなければいけないとは、思っていた。誰に対してのものではなく、ひとえに、過去の自分のために。
先程よりは冴えた頭は、明確に海に向かっていた。
▽ BACK TOP △