謝肉宴で城下を歩くということは随分と久しぶりのような気がする。
シンドバッドから監視の名目で動き回るように命じられていたジャーファルは、一人城下の周辺からまずうろついていた。ただ黙々と一人で歩いているからには不自然極まりないので、時折楽しげに騒ぐ彼らと共に話や食事を交えながらだ。
今日の獲物を仕留めたのがジャーファルだったということから、いつも以上によく声をかけられた。ヒナホホくらいの年の男に引き留められれば今日の一仕事を終えた味などと茶化され、女性に囲まれそうになるのを回避しつつぐるりとシンドリアを一周する頃には、もう城の傍の火の勢いは弱まっていた。
半年分の体力が削り取られたようだ。断固拒否したにもかかわらず、不本意ながらにも人付き合いというからには一滴も飲まないという状況は避けられず、一口だけ含めた酒の味だけで脳内が緩慢になっていくのを感じる。この奇妙な感覚が気持ちが悪い。人混みにも酔いそうで、人気のなさそうな海を望むくらいには今は一人になりたかった。

ふらふらと、しかし悟られたくはないとあがきながら足早に通りを過ぎ去り、漸く海の音だけが聞こえる程の場所に出た。手すりに寄りかかりながら胸やけが上がってくる喉元を押さえて、盛大に息を吐く。よくもまあこんなものをあんなにもがばがばと飲めるものだ。はあと大きくもう一度息を吐いて、ゆっくりと顔を上げた。

――人がいた。その人は波打ち際に立ち、ただ呆然と海を眺めている。手には赤い花を握りしめていて、肩に付かないあたりの短い髪を、潮風になびかせていた。
顔も見えないというのに。ここからではその後姿しか、分からないというのに。
何故だかナマエだと、そうなのだと、思った。
ゆっくりと脚を海に沈めていく。膝程までに沈めたところで漸く立ち止まり、腰を屈めた。それからゆっくりと上体を起こすと、緩やかな海の流れに揺蕩う赤い花が、そこにあった。揺れる髪の合間からのぞくピアスの縁を、月の光の反射がなぞって零れていく。
――彼女は海に落ちた。落ちて、この世界に来たという。海は嫌いだと泣いていた声は褪せていない。まるで、縁をなぞり零れ落ちる光の粒が、涙のようだった。
戻りたいと、泣いていたのだ。今も、彼女は泣いているのだろうか。
降り立った砂浜はあの日のように柔らかで、あの日よりかは月の光より背後の炎の明かりの方が強い気がした。


「――何を、しているんです」
「ジャ、ジャーファルさん……!? どうしてここに」


ばしゃりと水が跳ねる。見慣れない肌の続きがぼんやりと火の赤に灯されていた。組み合わされていた指で、彼女が祈っていたことを知る。
勢いよく振り返った彼女は目が合うとすぐに逸らし、そうしてまた遠くの海へ顔を向けてしまった。少しだけ背を丸めて両腕を抱えている。その手の傷や、晒されている肩の痣がやけに目について、こめかみがちりちりと痛んだ気がした。


「その、痣は」


ジャーファルの言葉に更に強く、指先がぎゅうと腕を握りしめる。彼女からは紛れもなく相対したくはないのだという意図が読み取れはするのだが、あの背中を、この海の中でたった一人にしてしまえば、その流れている花のようにどこかへといなくなっていくのではないかと思えた。だからこそ、このまま立ち去ることなどできなかった。


「――……マスルールさんに体術を教わっているんです。私が未熟なばかりに、傷ばかり増えてしまうので」


よく、見えましたね。と、微かに笑いながら言うその声に、見えないふりをするべきものだったのかと今更ながらに気が付いた。気づいてしまったからにはもう何を継ぐ言葉も見つからず、沈黙が圧し掛かる。
遠くの声や潮騒ばかりが耳をかすめていく。あまりに二人の間に人らしい音がなさ過ぎて、見ている彼女がもしかしたら幻なのではないかとさえ思われた。
動けば波紋の広がる足元にさえ憚れて、なんの言葉も浮かばない。
音も転がらない口の中は嫌に乾いていくばかりだ。
――例えば、ここにいたのがシンドバッドであったなら、彼女を綺麗だと、そう言うのだろう。痣や傷が今し方受けたものではないのかと、それとなく心を配りながら。
――彼女は徐に振り返って、そうして微苦笑を浮かべた。


「――ちょっと、夜風に当たりたいと思って。そうしたら、懐かしい花を見つけたんです。同じものではありませんでしたけど。……ちゃんと、けじめをつけたいと思ったんです」


一瞬だけ噛みあった視線は青く揺れていて、それからまたその青は赤い花を追いかけた。


「……けじめは、ついたのですか」
「――夢の中でも、あんなに何度も痛い思いをしてほしくない。楽しかった思い出だって確かにあったんです。これからは、両方ちゃんと、持っていきます。だから……」


ぽつりと、誰かの名前を連ねていく。表情は、向こうを見ているせいで見ることはかなわないが、恐らく耐えてはいるのだろうと思った。
心に残るひっかき傷のような悲しみは、どれだけたっても癒えてはくれないのだ。そんなものは、もう誰もが分かっていることだ。思い出すたびに、何度も痛んでは受け止めて、それでも生きていくしかない。彼女のように、ここにいる、彼らのように。
願わくば、この静かな海の夜に似た安穏を。
彼女の夢の中でも揺蕩い続けるといい。


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