王宮の方の火の粉が見えなくなり始めた。櫓も崩し始めて最後の火の始末をしている頃かもしれない。どれほどの間海に浸っていたかは定かではないが、爪先はふやけて感覚も遠い。
静けさに落ちていた長い長い沈黙を破ったのは、ナマエの声でも、ジャーファルの声でもなかった。


ピィッ。


警笛の音だ。
武官が緊急時に仲間を呼ぶ笛の音が、一瞬だけ上がった。風の音に紛れそうなほど小さい音は確かに、風下だからこそ聞こえ、そしてそれは緊迫した状況を告げていた。普段ならば三度は長く吹き続けなければならないのだ。しかしそれができない何かが、彼らを襲っている。
ジャーファルが海を掻いたのと、ナマエが走り出したのは殆ど同時であった。
音との距離はそこまで遠くないように思う。ここから北東に進めば、パパゴレッヤの生い茂るシンドリアでも比較的暗い道だ。隠れ蓑にしやすいということを考慮して巡回区域を広げていたその場所のあたりだと思われる。
城下周辺を警備していた彼らには、喧騒の所為で気づけないかもしれない。そして、彼女自身警笛は持ち合わせていない。ということは、何かがあった際、増援は望めない。
ジャーファルの速さに必死に食らいつきながら、腿に括った短剣を抜く。
タイル張りの道を駆け抜け、箱型に積み重なる家を何度も曲がりながら、緩やかなのぼり坂を見上げる路地に出た。パパゴレッヤの枝葉が覆いかぶさる。風に揺れる度、葉が擦れる音が流れる。
――気配はある。けれど、戦闘の形跡はいまだ見当たらない。


「――私が先行します。どこかにはいるはずだ」
「はい」


鋭い眼光が暗闇で尖る。ジャーファルの赤い紐が、だらりとその両腕に絡みついている。突き刺さる殺気は、紛れもなく彼から流れるものだ。
――思わず固唾をのむほどに、彼の空気は痛い。いや、この国におこる正体がようやくつかめるのであれば、それもそのはずなのだ。
短剣を握る手に力がこもる。不意に、緩やかな風が路地を抜けた。
異様なにおいだ。
すぐ傍がゴミ捨て場だからではない。鉄錆の、におい。
何かが、路地の脇の小道から飛び出している。
知っている。みなが大概似た様相をしていたので、暗く沈んだ色をしていたとしても、すぐにわかった。頭の中で、ここが最後の巡回警備だった隊の顔が浮かぶ。
駆け寄った足は、無意識だった。


「ナマエ!!!」
「ッ!?」


左上方から三本の矢が立て続けにナマエに目掛けて放たれる。地面に右手をついて回避すれば、唐突にジャーファルの紐が左腕を捉えて強く引き寄せた。ふわりと一瞬だけ体が浮く。後退するべく地面を蹴れば、巨大な黒い塊が頭上から重厚な質量を伴って降ってきた。


「チ、損ねた」
「愚鈍なんだよお前は」
「なんだ、また二人ぽっちしかいねェ。ぶっ殺してとっとと海渡っちまおうぜ」


路地から金髪の長身の男がひとり。正面に先程の巨体、ジャーファルの後方には双剣の男。そして建物の上には、ざっと四、五人は数えられた。
金髪の男は武官の首を掴みながら、薄ら嗤っている。
ぴちゃりと液体がその首から滴り落ちる。薄暗い所為でよくは見えないが、ターバンの解けた髪は濡れているようだった。


「……その人を、離してください」
「ああ、そうだな。手が疲れた」


どさりと無造作に落とされた彼は、その衝撃で目が覚めたのか、ぴくりと動いて、顔を上げた。
――ああ、やはり、そうだ。


「――ナ、さ……」
「アルさん、遅れてすみません」


キィイイン。


短剣が、アルサスを貫こうとした男の長剣を弾く。
ヒュウと楽しそうな口笛が落ちてきた。


「一緒に、帰りますよ!」
「――お、いいねあんたも。よく売れそうだ」
「勝手に動くなってんだ……!!」
「おっと、あんたは俺とやろうぜ。八人将サマ?」


完全に、四方から囲まれている。
できるだけ派手な音を立てての戦闘であれば、誰かが気づいてくれるだろう。増援があれば、十人も満たない賊なら対応できる。アルサスも、早く治療に専念できる。
一歩踏み出した間合いを、男は身を反らすことなく詰め寄った。狭い間合いは長剣では不利だ。短剣の刃を彼の首元へ滑らせれば、彼は切っ先をよけようともせずに、そのまま手首を捻り上げた。彼の手のひらから血がにじみ出て、ナマエの手首を濡らしている。
ぎょろりと、その色素の薄い目が顔面を観察し始めた。


「――うん、もうちょっと若ければ高かったな」
「……あなたが、最近話題の人さらい?」
「話題? そんなのどこの誰でもやってるよ。俺たちだけじゃない」


にたりと笑った顔は、悪びれもせずにただ淡々と告げている。


「奴隷狩りなんて言ったりする奴らだ。珍しいことじゃあない、が、あんたはなんも知らない幸せそうな顔してるな」


ぐぐ、と掴む力が強くなる。右ひざを振り上げて男の脇腹を蹴り上げれば、身体を折り曲げて後退る。ようやく離れた手首には、誰のとも知りたくはないが赤い血がこびりついていた。
アルサスの意識を確認したいが、それをするには余裕がない。すぐそばにいるのに。また、助けられない――。
アルサスに視線を落とした一瞬のうちに再び詰めてきた男は、細い長剣を振りかざす。短い刀身でその刃を滑らせれば、頭上から退路を阻むように弓矢が飛ぶ。軽装すぎる服装では、矢羽を掠めただけで腕に一筋の赤が走った。
素足がタイルを踏みしめる。二歩飛び退いて距離を置いた瞬間、横合いから現れた何かに右体側を抉られた。
――そう表現するにふさわしい力が半身を打ち付けたと気付いた瞬間、地面にたたきつけられた。
体中から嫌な音が響く。痛みが脳髄を巡り、悲鳴にもならない声を口の中で噛み殺す。


「ナマエッ……!」


――魔導器がないと、こんなにも弱くなるのだろうか。違う。もう頼ることなどできないと分かっていたから、マスルールに懇願したのだ。
立ち上がろうと両手をタイルに突く。持ち上げた頭を、誰かの足が踏みつけた。


「おい、顔はやめろって言ってるだろう」
「年端も行かない方が売れる」
「相応の売り方があるんだよ。身綺麗そうな身体はとくに」


視界の端で、足蹴にされるアルサスを見た。彼の意識は、もう途切れ途切れのようだった。
――助けたい。今度こそ。


「たすけて……っ」


頭上から、ぴしゃりと何かが零れた。


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