体育祭の決勝戦で、轟は左手を使わなかった。厳密にいうと炎を灯しはしたが、爆豪の攻撃に迎え撃つ瞬間に消し去ったのだ。
そうして、雄英高校体育祭一年ステージは爆豪の優勝で幕を閉じた。

あれから一週間が経った。学校は体育祭の名残りで未だ騒然としていた。サポート科といえば直接的な関係はないに等しいが、これを機に自分の売り方というものを模索し始めていくのだ。発目は本戦にまで進んだことから企業から何やらスカウトを受けてはいるようだが、その辺りの詳しい話はしていない。彼女は企業について云々というよりは、自分がより良い環境で作業に没頭できればなんでもいいというスタンスなのだろうと思っている。そしてそれは当たらずしも遠からずというものなのだろう。今日も今日とて朝から篭りっぱなしで、一限の始業間近になって煤だらけのまま駆け込んできていた。
そんな姿を見て頑張らなければと意気込んで、食堂で図面と格闘していた。空になった器を端に寄せて広げていたノートには一向にペンが走らなかった。
――悲しい、というのだろうか。このところ、エンデヴァーの記事ばかりを読んでしまっていた。彼が救った多くの人がいる。その事実を、蔑ろにしてはいけない。そう思う反面、事実かどうかも実際のところはまだ曖昧である個性婚という話が脳裏にこびりついている。
ペラと、ノートの一枚目まで捲る。エンデヴァーが背負っていたアイテムは、彼の熱を逃すためのもの。トップヒーローが持っているアイテムの構造は引退するまで公開はされない。画素の荒い写真と睨めっこをして彼の活躍している動画を舐めるように凝視しておそらくはと想像したアイテム。今はどちらかというとスーツ自体に冷却効果のある繊維を織り込んでいるもののようだ。
頬杖をつきながら眺めていれば、後ろから声をかけられた。


「あ、君、保健室の」


振り返れば、空のトレーを持っていた緑谷出久が立っていた。
彼は勢い声をかけてしまっただけのようで、目を頻りに動かしながらしどろもどろに「うえっと…その、大丈夫? 保健室、で、寝てたから」といった。いやむしろ彼の方が重症だっただろうに、こういうところがヒーロー科らしいなと小さく吹き出した。


「私より、緑谷くんの方が、大丈夫なの?」
「え、僕は全然…!」
「緑谷、何して――あ」


緑谷の背後からひょっこりと顔を出したのは、轟だった。彼は名前の顔を見るなり何度も瞬きを繰り返して、それからやはり、名前の頭を見ていた。


「轟くん知り合い?」
「…知らねェ」
「…サポート科の、名字名前です。授業でヒーロー科の人たちの話をするから、一方的には、なんとなく知ってるの。…だから、この間は勝手に名前呼んじゃって、ごめんなさい」


二人ともが別々のタイミングで同じことをしてしまっているので、なんとなくは見当がついたような顔を浮かべながらもそんな別に、と緑谷だけが笑ってくれた。轟は白い髪を見たあと、徐に手元のノートに視線を移した。
――隠して仕舞えばよかったのかもしれないと、その瞳を見てから思ったところで遅すぎた。


「……これ、」


すっと細められた瞳を皮切りに、露骨に表情が歪められた。緑谷がノートに気づいて「これってエンデヴァーの、」とまで口にしてしまって、尚更に沈黙が深く沈みこんだ。
あっけらかんとして告げてしまうには、彼のこのツートンの髪色に隠されていたものを想像している。しかも体育祭はついこの間に終えたばかりで、あの熱は冷めやらずに其処彼処に残っている。轟の中にでさえ、また燻っているのだろう。あの決勝戦で炎を収めた彼の表情に何も感じられないほど鈍くはなかった。


「……あんた、彼奴のファンなのか」


このテーブルの一角だけ、空気が凍り付いている。
轟の低い声に、どんな言葉も吐くことも許されないのではないかとさえ思う。


「…物好きなやつもいるんだな」


――それは、違う。


「…エンデヴァーは、ナンバーツーのヒーローです」
「万年な」
「ランキングは事件解決数や社会貢献度、支持率を反映してるんです。彼に救けられた人たちだって、大勢いる」


がたりと席を立って、ノートを小脇に挟み込む。


「…私は、エンデヴァーが一番のヒーローだって、嘘吐いたことない。これからだって……すみません、」


頭を下げて、二人の顔も見ずにそのままトレーを抱えてカウンターにまで小走りで向かった。いつもより乱暴に置いてしまったことを後悔しながら、それでもできるだけ早く食堂から立ち去りたかった。
――たとえ、轟の過去に重苦しい何かしらがあって、目を背けたくなるような事実があったとしても。エンデヴァーに救けられた事実は捻じ曲がらない。救われた人たちがいるということに変わりはない。それだけは、濁してはいけないと思う。だから、彼の物言いが許せなかったのだ。まるでエンデヴァーによって救われた人など誰一人としていないだろうと言いたいような言葉の裏側に宿る気配が、許せなかった。
ただ、それは名前だけの思考であって轟が持っていなければならないものではなかった。押し付けてしまっていいものではなかった。


(……やってしまった)


ノートを胸の前で抱きしめる。
エンデヴァー。貴方は四歳だった名前を救ってくれた人で、今もなお、熱に苛まれる身体で多くの他人を救おうと動いている人だ。それは、否定も肯定もする必要のない純然たる事実だと、思う。それだけは、確かなことだ。

否定をしないでほしかった