最悪で綺麗な指先
ジャージに履き替えて地べたに腰を落ち着ける。手の届く範囲にパレットと油壺を置いて、最大限低くしたイーゼルにキャンバスを立てかけた。
吸い込んだ息の中に混じる油彩道具の独特な匂い。朝焼けの中にいるような心地に呼吸を一つして、筆を握り締めた。
――キャンバスに色を置いていく。さっぱりとした黄色の地塗りの上を埋め尽くしていく。記憶の波間に漂っている景色をこの区切られた世界に置いてくるように、筆を走らせる。完成されたものとは程遠いこの瞬間が、名字名前にとって、例えるなら日向で転寝をするかのような幸福なものであった。
物の輪郭を大雑把に描きながら小一時間が経った頃、廊下から忙しない足音が響いてきた。
「――名前!」
スパン、と小気味良い音を立てながら開かれたドアの先に立っていたのは、六限が終わるな否や名前に詰めかけてきていた友人だった。
盛大な音に肩を震わせながらも、ここで振り返っては彼女の思う壺だ。黙々と筆を走らせていれば、彼女はズカズカと大股で名前の下にまで歩み寄ってくる。名前の周りに敷いていた新聞紙は踏まずにやや遠いところでしゃがみ込んだ友人は、勢い両手を合わせた。
「お願い、ほんま一生のお願い!」
「……絶対やだ」
「そう言わんで、一回ぽっち一緒に行こうやー! バレー部の練習試合!」
べちょ、と右角に盛大に置いてしまった色を布で拭き取る。絶対やだと何度も同じ言葉を繰り返したところで、彼女が折れる気配など微塵もない。
――大体、何がどうしてバレー部の練習試合など観に行かなければならないのだ。
金輪際応援などするものかと心に決めたのがつい二日前の話だ。宮――金髪の方がどちらか知らない――の最悪な気分にさせられた告白現場に鉢合わせた日から、まだ二日しか経っていない。未だに寝る前に思い出しては腹が立っているというのに、応援などさらさらする気にもなれなかった。幸いクラスは別なので会うこともないが、そういう人物なだけに一日数回はその名前が耳に入ってくる。それだけでも多大なストレスだ。
友人にはその告白の状況を矢継ぎ早に話した記憶はあるのだが、彼女が好きなのは純粋なバレーとそして主将の北だ。北は三年生なのでこういう機会でもなければ拝めないのだと泣き付かれたのが一時間ほど前の授業終わりで、それを振り払って美術室に逃げ込んできたのだ。
彼女はこの通り、と突き合わせていた両手を頭上に持ち上げて首を垂れた。
「一回だけ、もう隅っこからでもええ! 稲荷崎のファン怖いねん、一人じゃ行けんの!」
「そもそもバレーとか私知らんし、絵描きたい」
「大丈夫、バドミントンと一緒や。ボール落ちたら一点入るんよ」
「無理興味ない」
パレットにはまだ一色しか出していなかった。彼女はそれも目敏く見ていて、だからこそ今のうちにと押してきているのだろう。これはもう引かないだろうなと、薄々気づいていた。
「…新作ハーゲン一個」
「……はあ、見終わったらええ時間やしお腹減るかもなあ」
「っ鬼畜! でもコンビニでなんか買っちゃるわ!」
筆を筆洗器に差し込んで立ち上がる。画展の締め切りまでまだ間に合うので、早々この絵を急いで仕上げる必要性も確かにない。――行き先がバレー部でなければ、こんなにも首を横になど振らなかったというのに。
もう一度我知らずこぼしてしまった溜息に、彼女は「ほんま有り難う」と満面の笑みでそう言った。
再び制服に着替え直して美術室を整頓してから、彼女と共に体育館に足を運んだ。途中応援と思しき生徒に先に越されるたびに重くなっていく歩みを、見透かした彼女に腕を引っ張られる。
外廊下の手前の自動販売機を横切り、腹の内をドロドロとさせながら外廊下を渡り、二階への階段を上がった。見やすいからなのかギャラリーの方は既に人で溢れていた。
バレー部は高校のメイン体育館を使っているのでギャラリーも比較的広い方だった。確かサブの体育館はメインほどしっかりとした造りではなかったなとくだらないことを考えていなければ、頭の中は宮の悪態で埋め尽くされそうだった。
ステージの反対側にある二階のスペースは卓球用になっていて、折り畳まれた卓球台に寄りかかりながら、塀に肘をついて乗り出さんばかりの友人を眺めていた。
体育館に入った時には既に試合が始まっていて、コートの中には宮の姿があった。銀髪と金髪の双子の姿があったので、宮治と侑の両方が揃っているということになる。どちらがというのは知らないし前述の通り興味もない。コートに六人もいればぶつかりそうだな、という安直な感想しか湧かなかった。
「…ていうか、北さんて試合出んの?」
「北さんは要所要所で入ってくるの。場が締まるんよ」
「へえ…」
「ちなみにこの次のサーブは宮侑やで」
「どーで、も――」
なんという表現が、適切だっただろうか。笛が鳴った後、体育館に響いた轟音に言葉が遮られた。ボールは何で出来ていただろう、と疑問に思ったほどに、重すぎる音だった。友人の隣から顔を出せば、再びボールはコートの後方に立っている宮――金髪が侑というらしい――に渡されていて、やや暫くして笛が鳴った。
ふわりと頭上高くに投げられたボール。助走をつけて跳ねがる身体。捩られた上半身が振り抜かれ、ボールはネットを越えて相手コートに叩き落とされる。先程と同じような衝撃の後、歓声が響き渡った。
「バレーって、落としたら負けやん。せやから、サーブ強いと相手は上げられん。それで点取れへんで終わるん」
おもろいやろ、と彼女は笑っていたが、それでは試合がすぐに完結してしまって面白くはないのではないだろうか。
腑に落ちない名前の顔に、友人は「まあ見ててや」と頬を緩ませてコートを指さした。
宮の三本目のサーブは、相手コートの一人だけ色が違うユニフォームを着ていた選手が打ち上げた。天井についてしまいそうな程高く上がったボールはそのまま稲荷崎のコートに返ってきた。金髪の宮がボールの真下に入り込む。両手を高く伸ばして、十本の指の腹がボールを弾いた。緩く回転するボールの先には角名という選手が既にジャンプ動作に入っていて、あっという間に一点をもぎ取っていった。
――あんなにも流暢に相手を詰る言葉を吐くくせに、しなやかに伸びる腕や指先が綺麗だと思った。バレーというものを見たことはなかったけれど、おそらくは彼が放ったボールを打ちづらいとは思わないのだろうなと漠然と思えた。それ程までに、彼の身体からこぼれたボールの軌道も、それを成した彼そのものも、綺麗だったのだ。
他者より抜きん出て際立った何かを持っている人は、大抵の人が持ち得ている人としてのあれそれを失ってしまうのかもしれない。そうであれば彼はバレーのために生まれて、バレーのために一生を費やしていかなければならないのだろう。
角名の肩を組んだ宮は銀髪の宮とともに相手に背を向けながら何かを話していて――中身はなんとなくくだらないことなのではないかと思った――最後にぱっと無邪気に笑って不意に顔を上げた。
――ぱちりと、目があった。一瞬前までの笑顔が嘘のように顰められ、隣にいた銀髪の宮に捲し立てるように唇を動かしている。
視線で殴りかかって来られたので、思わず中指を立てそうになって友人を見遣れば彼女も何か気がついたようではあったけれど「せめて二セット目まで見届けさして」と懇願するような眼差しを向けられ、仕方なく塀に隠れるように背を向けながらしゃがみ込んだ。彼も彼で試合中視界に入らない方が互いのためだろう。
稲荷崎が二セットを先取するまで、ボールが弾ける音だけを聞いていた。