無意識に落ちる



うつらうつらと漕ぐ彼女の頭を横目に、異国の文字の羅列を追う。昼食の終えたばかりの穏やか過ぎる五限目は教師の声は悉く子守歌に聞こえ、誰彼も自然と頭が下がり気味だった。
ぺらと窓からそよぐ風にプリントが攫われて、夢に浸る彼女の足を掠めて落ちる。
細く長い指が、ゆっくりとのばされた。


「…起こしてほしかった……」


そう顔を歪める彼女の手元のプリントは穴埋めの空欄ばかりがやけに目立っていた。何で俺が、と口に出さずとも伝わったのか、彼女は小さく苦笑いを零した。
斜め前の彼女は再び机とむかってシャーペンを握り締める。
その首がもう一度小舟を漕ぐのに、そう時間は掛からなかった。

その日はボールが軽いような気がした。いや、軽いとは違う。いつものようにミットに食い込んでくる感覚はある。ボールが生きていると思えるピッチングだ。
それでも、何かが違うのだ。


「巧」


全体練習の後に与えられたピッチング練習を終え、自分より幾分小柄な少年を呼び止める。少年、原田巧は薄っぺらいカバンを肩に担いで振り向いた。


「なんだよ、早く帰ろうぜ」


詰襟のホックを留めてからその隣に並び、遅くも早くもない歩調で歩き始める。
空は既に日暮れて遠く、彼の頬は朱色が差していた。


「なんかあったんか?」
「なんで」
「いや、何となくじゃ」


巧の右手はポケットの白球を撫でていた。


「何もないよ、つまんないこと聞くなよな」


いつもの調子、いつもの声。人受けのあまり良くない話し方も相変わらずである。これはきっと、短い間でも原田巧の球を受け続けてきた自分だからこそ分かるのだ。


「うん、やっぱりなんか変じゃ。なんか変なもん食ったんと違うか?」
「変なのもしつこいのもお前のほうだよ」


そうして別れ道に差し掛かり、足を止めた。既に背中を向ける彼を見つめてから呟く。


「……なんなんじゃ」


それは不快感ではなく寧ろ良いもののような気もするが、分からないということほど不安なものはない。況してやそれが自分のバッテリーだというのであれば気に掛かるのも当然だろう。
豪はじゃあなと叫んでから踵を返した。

その次の日も、そのまた次の日も、違和感が拭えることはなかった。


「――で、じゃ。どう思う?」
「どう思うって言われても……」


階段の踊り場で彼とは一段違いに座っていた名前は困っていた。
のびのびと昼寝に勤しんでいたところ、突然肩を叩かれ起こされた挙げ句ちょっと話があると言われて切り出されたのは彼女と同じクラスであり永倉豪のバッテリー、原田巧についてだった。


「最近なんか変なんじゃ」
「豪ちゃんが変なだけじゃないの」


睡眠の途中を邪魔されたので酷く眠い。
投げ遣りな返答に「そういうとこ似てきたな」とむっとしたような顔をされた。豪に似てるといわれたり巧に似てるといわれたり、この目の前のバッテリーは揃って適当なことばかりを言う。


「なんかクラスであったんか?」
「なーんにも。あっ豪ちゃんチャイム鳴るよ、はよせえっ」


いつもの急ぐ豪の言葉を真似て笑えば、本人は少しむくれて肩を落とした。そんな彼の背を押しながら教室前で別れれば、偶然顔を上げた巧と目が合う。
すぐに逸らされるわけでもなく、彼は名前が席に近づけば睨み上げるように顎を上げた。


「――豪と二人なんて珍しいな」


元来目付きの悪い彼のことなので、それが睨まれているわけではないと知っている。名前は椅子に腰を下ろし教科書を取り出してから振り返った。


「バッテリーって、大変なんだね」
「あいつになんか言われたのか?」
「伝えても困らないことは言っても良いんじゃない? ってこと」


暫く無言を貫いた彼が僅かに逸らした視線の意味は、きっと彼のみが知っている。
授業開始の号令の後巧が長く俯いていたせいで、どんな表情をしていたかなんて分からなかった。
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