鈍色のいと
授業も終えたころから雨がちらつき始めていた。どんよりとして生温く、気持ち悪い雨だった。
今日は一日中空ばかりを眺めていた気がする。
暗い鈍色の空はつまらなく、無意識に溜息を吐いていた。
明日の予定を未だぎこちなく話す草薙の声を聞き流しながら、頭の中で夕飯の支度を考えていた。
――朝起きて誰もいないリビングにも慣れた。ただいまと声を上げても帰ってこない言葉にも慣れた。どうして自分ばかりこんな目に遭うのだろうと嘆くことは、そういえばもうなくなっていた。
それはこの現実を受け入れたからというより、見ないように近づかないように、傷つかないように距離を置いているにすぎなかった。
だからこそ、家の中にある家族に関することには触れられずにいた。
(…夏休みになったら、ちゃんと……)
そう呟いて、呟いた声に蓋をして、目を瞑る。号令の合図に席を立ち、頭を下げた。
瞬間騒然とする教室に、一人ぽつんと立っているような気がした。
息をしているのか自信がなくて、口元に手をやればシャーペンのにおいがした。
もう一度視線を空へと戻す。
雨はいまだ降り止むことはなく、窓に透明な涙を叩きつけていた。
借りた本を返すために図書館に寄ってから下駄箱へ向かった。湿気の所為で上履きの底が歩くたびに音を鳴らし、少しだけ煩わしかった。
自分の番号の下駄箱に手をかけ、白い靴を放り投げる。
意味もなくぼうっとそれらを眺めていれば背後で足音が響き、振り返った。
そのまま視線を横に流したせいで、学ランの詰襟ばかりが視界に広がる。
「…かえんないの」
「……、帰らないと、だね」
見上げればそこには巧がいて、彼の言葉に思わず言葉が詰まった。
どこに帰るというのだろう。
自分の居場所は、はたしてあの家であっているのだろうか。
随分と歯切れの悪い返答をした名前に彼は目を細め、それからいつもより適当な仕草で靴を放り投げた。てんでばらばらのほうを向いた靴を直そうと屈んだ巧は、不意にほんの小さなくぐもった声をあげた。
もし廊下に誰かが通っていたならば気が付かなかっただろうほどのその小さな悲鳴に、彼女は巧の震える指先を見た。
その震えは一瞬のもので、息を細く吐きながら彼は靴をそろえて踵を慣らしている。
こめかみに、うっすらと汗がにじんでいた。
「…怪我、したの?」
大丈夫? そう言葉を漏らして何の気なしに巧の背中に触れれば、いつかの朝の服装検査のときに似たような鋭さで「さわんな」と声が弾けた。
それと同時に弾かれた手のひらはじんわりと熱く、驚いて瞬きをすることも忘れて彼の揺れる双眸を凝視した。なんでと呟くべきなのか、どうしたのかと問うべきなのか、固まった唇はただ息を漏らすばかりで動くことはない。
巧はばつの悪そうな顔をして、それから足早と昇降口を後にした。
てのひらが、痛かった。
彼の背中が物陰に消えるまで動けずにいた名前は、叩かれた熱さが引いていった頃に漸く息をした。
唐突に鼻の奥がツンとして、目尻が熱くなる。心臓の奥で、ぴりりと微かに、それでいて鋭い痛みが走った。
――ここへ来たときに一番に出会った人というだけで、入学前にたった少し話をしただけで、たまたまクラスが一緒だっただけで、それだけの関係であるのに。
どうして、痛いと感じるのだろう。
彼女が触れてほしくない傷があるように、彼にもそれがそこにあって。その傷に触れるにはこの関係性は脆すぎて、柔すぎて、遠すぎて。
(…ほんと、ばかみたい)
零れそうになる涙を、上を向いて飲み込んだ。
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