埋もれる自覚



ふと、目を覚ますのだ。
前触れもなく唐突に、はっきりと明瞭に重苦しい靄を伴って。
それは間違いなく、彼女と世界の間で分かつ意識と認識の相違によるものであり、本当はいつだって誰よりも近くにあるはずの物であったのに。それを忘れていたというにはあまりに軽々しく恐ろしく、受け止めきれない感情が沸き上がる。
向こうの世界でのことを"思い出す"たびに、いいようのない切なさと苦さが胸の奥で燻った。
はあ、とため息を一つこぼしてみたところで何も変化など起こるはずもなく。
ただ部屋の丸い照明がぐにゃりと歪むばかりであった。


「……あ、買い物行かなきゃ」


窓の向こうを眺めれば空は延々と藍に染まり、雲が立ちこめては煌めく星をも飲み込んでいた。街灯が頼りなく灯っている。
彼女はベッドから起き上がり、少し乱れた髪を手で梳いて学生カバンの中から財布をとる。
裾の破れたズボンが踵に張り付いて、いつになくうざったかった。




田舎といってしまえば、怒られるのだろうか。
街灯がなければ歩道と車道はおろか、側溝とその先の田畑の境すら分からない。その街灯も間隔が広すぎて、思わず電柱の脇で立ち止まった。
足元は確かに明るい。
それでもこの囲いの外に踏み出してしまえば、底無し沼のように果ても見えないほどの暗さがある。
立ち止まってしまう事は、彼女にとって何を意味するのだろうか。


(……すこし、つかれただけだよ)


ズボンのポケットにひそむ膨らみは重たくて、視界が滲む。ただいまも、お帰りも。返ってこない声の奥にあった自己肯定感が、ゆらゆらと溶けてゆくような気がした。


「……名字?」


声変わりの終えていない声は少しだけ擦れていた。
名前はゆっくりと振り返り、笑う。


「……巧。部活、お疲れさま」


暗やみに浮かぶ襟元の白さが、異様なほど浮かんでいる。彼は厚みの薄いカバンを肩に担いで、首をかしげた。


「散歩?」
「ううん、買い物。野球部、すごいね今七時だよ」
「自主練してた。そっちこそ、買い物なんかめんどくさ」


一人暮らしみたいなものだからね。そう言おうとして、噤む。簡単に口から出ていってしまえるような言葉だったのに、それは頭の中で次第に重たく大きくなってゆく。
原田は暗闇からぬらりと一歩踏み出して、囲いの中に入り込む。
彼はあまり人付き合いが得意でないというか、人との距離感が下手だから。
この囲いが今彼女にとっての絶対不可侵領域であったことを、原田は知らないのだろう。


「…スーパーって、どこらへんだったっけ」
「え? ああ、えっと、向こうの方」


二人の進行方向を指差して、二、三度瞬いた。
彼は名前を追い抜いて歩き始め、なかなか動き始めない彼女に少しだけ眉根を寄せて振り返る。


「行くんだろ、買い物」
「うん?」
「付き合うよ、暗いし」
「…ん…え、ええ? 巧が? 買い物に?」


暗い底無し沼の上に彼は立っていた。
何も言わず右手をポケットに突っ込んだまま――恐らくそこには野球のボールがあって、彼は確かに、待っていた。


「……」


明るい足元が、眩しい。
彼女は囲いから足を踏み出して、暗闇に飛び込んだ。
――高校生にもなって、いや、高校生であったのに、小学校から上がったばかりの少年に手を引かれるなんて。
足の裏には、地面を踏む感触があった。


「部活疲れた?」
「はあ? 別に」
「なんかおごってあげよっか」
「いいよ、これから夕飯だし」
「真面目。私だったらなんか飲み物せがむのに」


街灯と門灯と暗闇で斑になる道路を歩く。
少しだけ前を歩く原田は振り向いて、ポケットから手を抜いた。


「名前ってさ、意外と豪と違うんだな」
「…巧は言葉が足りないと思うよ。私のどこが真面目に見えてた?」
「杉本とかが言ってたんだよ。大人っぽいとか真面目そうとかいろいろ」


彼がいうからにはそれは嘘ではないし、勿論こんなところでつまらない冗談をいう性格でもないことくらい理解している。
ただ、あまりに直球すぎるせいで、だからこそ、反応に困る。
名前は一瞬言葉に詰まって、少し前の自分を思い返してみた。
――十二歳だったあの頃、私はどんな子供であっただろうか。


「…そう、かなあ?」
「まあ、そうなんじゃない? そういうとこは豪っぽい」
「……豪ちゃんごめん、ちょっと嬉しくない」


じじくさいってことでしょ、と出かけた言葉を呑み込んで笑う。
雲間に隠れた月が顔を出す。
原田は「あとで本人に言っとくよ」と小さく笑いながら、また右手をポケットに突っ込んだ。


(意外とよくわらうんだ、)


少しだけ、ほんの一瞬瞬きを忘れてその口元を見つめる。
なに、とつぶやかれた言葉に弾かれて視線を上げれば、怪訝そうな瞳とぶつかった。
なんでもないよと頭を振って足元を見やる。
いつもより歩幅の小さい、彼の綺麗な白い靴が見えた。
prev next